わが家のオーラルヒストリー

 86歳の姉から聞き取るオーラル・ヒストリー(口述記録)で、副題は「戦前の光州の記憶」。彼女は1935年(昭和10年)全羅南道・光州生まれ。2年前に友人と鎌倉・小町通りを歩いていて、人とぶつかり大腿骨を骨折した。その1か月の入院が認知症を発症させた。新湊の洋品店経営も覚束なくなり、ほぼシャッターを下ろしている。デイサービスのない日に昼食を共にしながら、メモを取る。幼児期に遊んだ光州の街並みは今でも鮮明に覚えていると切り出してくれる。弟のバイアスが入るが、ぜひ聞いてほしい。

 一番印象に残っているのは光州神社だ。120の階段があり、競争するように登って遊んだ。鳥居の大きさは新湊八幡宮の比でない。どうしてこんな立派な神社ができたのか。いまでも不思議に思う。立派な建物といえば、レンガ作りで威容を誇った全羅南道道庁である。父が一時期勤務していたので、弁当を運んでいくのが私の役目であった。次に田んぼの中にあった監獄と呼んでいた光州刑務所。広い敷地に高い塀で囲まれていた。赤い囚人服は刑の重い人、青い囚人服は刑の軽い人。物心が付いた頃に、看守であった母に弁当を持っていくと女囚たちが、「カンサマの子」といって、先を争うようにお菓子をポケットに入れてくれた。私が通った光州府立中央小学校もレンガ作りの2階建てで、日本人しか通っていなかった。日本の小学校よりも立派で、2年担任の間所先生は富山県出身だった。朝鮮の人たちの住まいは離れていて、日常的に見ることがなかった。記憶に残っていない。

 光州の唯一の商店街は本町通り。そこに「婦人商会」という店があり、正月元旦には家族の下着をすべて新調するというわが家のしきたりで、ここで買っていた。この店の屋号が気に入って、引き揚げて12年後に新湊の立町に同じ屋号の洋品店を開いた。この店には、近所に住む竹内という小さな子がよく遊びに来ていた。この子が後の立川志の輔で、その頃からよくしゃべる子だった。

 父方の祖父母も、私たちよりも数年先に朝鮮に渡っており、栄山浦に住んでいた。光州から栄山浦までは列車が通っており、時折訪ねていった。広い敷地に、祖母が大声で「ドーニャ」と叫ぶと飛んでくる女中さんが2人いた。新湊の作道で商売に失敗して、夜逃げ同然に朝鮮に渡ったのに、日を置かずに日本人というだけで、こんな生活ができた。全羅南道は穀倉地帯で、栄山浦は木浦港を結ぶ要衝だった。1910年に東洋拓殖栄山浦支所が開設され、大規模農業を目指し「日本人大地主」が誕生。米は当然日本に運ばれた。

 光州には富山・入善から、柏原常三さんが林業試験場の職員で働いておられた。父とは仲良く将棋をしたり、酒を飲んだりの仲だった。芥川賞を取った柏原兵三のおじさんでもある。引き揚げてから、入善で「かしわら旅館」を営んでおられた。また、同じく入善出身の的場さんは光州神社の近くで、雑貨商の大きな店を構えておられた。同じ年恰好の娘さんがいて、運動場みたいな広い庭で三輪車などに乗ってよく遊んだ。

 さて、1945年8月15日正午の玉音放送。祖母、母、私とラジオの前に座ったが、さっぱり聞き取れない。隣家の元教師の岩城さんから、ようやく事情を聴き、敗戦を知った。「日本が負けたのよ。本土にすぐに引き揚げなければならない」と念を押される。しかし、臨月の母を抱えて動けない。ようやく8月30日弟が生まれたが、母の産後の肥立ちがひどく、荷物どころか自分が歩くのが精一杯であった。生後40日の弟は祖母の背に背負われて引き揚げたが、おっぱいも十分に飲めず、よく生きて帰れたと思う。

 次回には、引き揚げの様子を伝えます。

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