「紅葉する老年」

この命、どうしたものか。古稀の古い脳であっても、自分勝手に遊ぶのが好きだ。その脳細胞は想像の突起を伸ばして楽しませてくれる。残り少ない命であっても、できる限り自分を他者に預けずに生きておれば、最後の面白さを享受できるのではないか、と思えてきた。その代償として払わなければならない羞恥や屈辱はあるだろうが、やむを得ないであろう。そんなことを思い起させたのは、ロシア文学研究の碩学・武藤洋二で自在に書き下ろした「紅葉する老年」(みすず書房)である。大阪外大のロシア語学科を出て、そのまま教鞭を取っているので、亡妻もその謦咳に接しているかもしれない。副題として「旅人木喰(もくじき)から家出人トルストイまで」となっていて、あとがきにこう記している。
 「人間の生死をあつかうのは人為ではなく神為であり永遠の生を求めるのは無駄なこと。昼夜、あなた自身を喜ばせよ。日夜、宴を繰り広げよ。昼夜、踊って楽しむがよい。喜びの宴とは命の使い道である。不死を願うより宴に加わる方が人間に向いている」。古稀にはこんなメッセージが響く。命の個性がメインテーマで、自ら楽しんでいるようだ。
 命の個性の幅は、常識の幅より広い。シベリアに流され、「石の袋」と呼ばれた2メートル四方の石牢に投げ込まれ、食い物は黒パンと水のみであっても生き延びた宗教者アヴァクームがいる。46歳から61歳までの15年間で、その後火炙りの刑に処された。一方、303年間続いたロマノフ王朝18人のうち還暦を迎えることができたのは2人だけである。なぜ、黒パンだけでビタミン不足から壊血病を避けることができ、何よりうつ病にも絶望にも打ち勝つことができたのか。王侯たちは暖衣飽食の境遇での短命さをどう解釈すればいいのだろうか。宗教者アヴァクームはロシア正教の古儀式を守るという絶対的な使命感が生命維持に働いたという結論である。命と生き方とパンが三位一体となって、アヴァクームに仕事をさせたのである。人間の生き方は多種多様であり、パンもまたそれに応じて変身するというわけである。
 プラド美術館に所蔵されているゴヤの自画像「これでも私は学ぶ」は2本の杖で自分を支えている。80歳前後の白髪は乱れている像だが、国王に引退を願い出る際に、宮廷画家としての俸給を引き続き恩給として支給するよう求めている。それから取り組んだのは銅版画より儲かりそうな象牙に刻むもので、独創的だと自画自賛し、「これでも私は稼ぐ」という現世利益追求がゴヤの生きる源となっている。
 自分を他者に預けずに生きていく、ということは、高血圧やコレステロールなどの医学的常識を外れて、健康守護というストレスからも解放されることを意味する。百寿者たちのほとんどは、栄養学が何を訴えようと馬耳東風に生きている。健康とは自分の体と心の個性がのびのびすることによって、命が活き活きすることである。
 一方で、70歳が人生の終点と決める者もいる。フランスの社会主義的労働運動の指導者であったラファルグで、衰えつつ生きるべきではないと考え、70歳を目前に妻とともに自殺した。人生からの勇退である。病苦で命を絶つのは人生からの敗退であるが、そこには合理性もある。オランダでは、一定の条件を満たせば「生命の自発的終了」を可能にする致死薬入りの食物を医師から受け取ることができる。命を絶対化しない。国が安楽死という自殺を手助けし、勇退も敗退も共に寿命自決権の行使であるとしている。21世紀はこの方向に傾斜していくことは間違いない。
 最後にこの1冊も加えておきたい。わが書棚にある中村真一郎の「女体幻想」(新潮社)で、最晩年に性愛の意味を文学的に探っている。老人のかすかにうごめく本能のままに、想像はおのが経験をもたどらせて、妙なるエロスへの回帰を謳いあげている。古稀の精神の遊ばせ方として、やはり世に問いたいとの意欲がにじみ出ている。とにかく、いずれも残り少ない人生を自分を喜ばせるために生きよ、というありがたいご託宣なのだ。

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