アラスカ

 家族5人そろっての、最後の海外旅行となったのがアラスカである。1989年8月のこと。長男16歳、次男14歳、三男6歳で、妻の友人がアンカレッジに住んでいた。行こうと思った時に、行っておこうとなった。その通りで、この8年後に妻が逝くなんて想像もできない。帰りの機中で、今度はニューヨークだといっていたが、それは1997年8月、妻の遺影を携えてのものになってしまった。8月になると、希望と失意のふたつの旅が思い出される。

 アラスカ行きだが、富山からマイカーで県営名古屋空港に出向いた。ハワイアン・エアラインの夏休み向けの臨時便で、一家5人が横並びに収まり、窮屈な座席だったがくつろいで飛べた。初めての海外旅行に子供たちは緊張しながらも、機内食を平らげていた。妻の友人は母子家庭であったからか、日本を抜け出したいという思いが強かった。伏木高校ではロシア語を学んでいた。同校には貿易科もあり、北前船で栄えた気風を伝承している。妻は大阪外語大ロシア語科を出て、伏木海陸運送で貿易の仕事についていて、ソ連船が入った時には一緒に訪問して、楽しむ仲だった。その友人が無謀とも思える行動に出る。伏木にきていた米国人ALT(外国語指導助手)に付いてシアトルに渡ったのだ。最小限の渡航費だけだった。向こうでは、小さなボートでの海上生活だったという。その米国人とも別れて、ひとり日本レストランでアルバイトをしながら、アメリカの奨学金を使って看護師の資格を得た。さすが移民の国である。ポッとやってきた日本人女性にそこまでやってくれる。彼女の根性の強さが切り拓いたことは間違いない。

 そこから航空貨物のパイロットに出会って、アンカレッジに居を構えた。80年代半ばまで日本から欧米へ行く旅は、ほとんどがアンカレッジ経由であった。それがすべて直行便となり、寂れたローカル空港となっていた。旦那の名前はアクセルといい、車のアクセルと同じだと記憶した。わが一家はビジネスホテルの2室を確保したが、彼の案内で鮭釣りを楽しみ、更けない白夜のバーベキューを楽しんだ。アラスカの川には鮭の群れが川面を覆いつくしていた。あふれる鮭の群れを子供たちは夢中で釣り上げ、醍醐味を味わった。彼らの家は団地の一角だが、広い敷地を有し、プライバシーをしっかり守れる寝室には、シャワーブースが備えられているのに驚いた。夫婦を基本とする文化に今更のように感じ入った。ふすまで隔てたわが家との差は歴然としている。そして、団地の中に個人が所有する小型飛行機が散見された。アクセルはよく乗せてもらって、釣りなどに出かけるという。日本資本の西武が、アリエスカにプリンスホテルを建て、スキーリゾートを開発していると聞いたのもこの時である。星野道夫が伝えたアラスカのほんの一部を堪能することができた旅であった。

 さて、妻が逝って24年。彼女とも音信も途絶えてしまった。彼女のことだから、アメリカ国籍を取得し、西海岸の大病院で働き、サンタモニカあたりで老後を送っているかもしれない。故郷に固執しなかった彼女の勇気を心から賞賛し、ぜひ書き残したいと思った。

 コロナはわれわれの未来を厳しく予見している。もう元に戻ることはない。格差は拡大するだけだ。英語や中国語を操る高度に知的訓練を受けた一部の人間だけが富裕層に入っていく。彼女が伏木で住めないと思った貧困と差別が誰にもおそってくるということ。誰しも、日本脱出を視野に入れる時が来ている。

© 2021 ゆずりは通信