未完の国鉄改革 

75年前後のことだ。確か代々木公園での国際反戦デー全国統一行動日だったと思う。総評を中心にした労働運動がまだまだ盛んで、その時も各単産が全国動員を掛けていた。退屈な演説が続き、会場がだらけ気味になった時だった。会場後方の垣根を全員がさっと飛び越えて、青色の労働服に身を固めた集団が掛け声をかけながら、馳せ参じた。200人ぐらいだったろうか。颯爽とした若武者軍団である。「あれは何だ」と会場全体がどよめき、眼を見張った。動労青年部の登場である。その初代青年部長であり、「鬼の動労」を築き上げたのが松崎明。現在JR東日本労組の会長で、「JRの妖怪」の異名通り君臨し続けている。
 JR西日本の尼崎での脱線事故報道に、この光景を思い出した。若い読者のためにおさらいをして置こう。国鉄には87年の民営化以前、ほぼ3つの組合が存在した。左派の国鉄労働組合(国労)24万人、国鉄動力者労働組合(動労)4万人、右派の鉄道労働組合(鉄労)4万人。75年のスト権奪還8日間ストを積極的に担ったのが国労、動労であった。このことに危機感を募らせた政府財界が大量のスト処分で反撃に出た。分割民営化の大きな目的は左派系労働組合の切り崩しにあった。鉄労はストにも反対し、率先して分割民営化を主張していた。国労がスト処分反対順法闘争を行って抵抗していた。そんな時に動労が豹変したのである。動労のコペルニクス的転換とも、当時動労委員長でもあった松崎にちなんで「松崎のコペ転」ともいわれる。国家権力が総力を挙げてくる時は、蛸壺に入ってやり過ごすという戦術的蛸壺論を振りかざし、分割民営化に賛成、ストもやらないと正反対の立場に転換したのである。これが国鉄からJRへ移行する重要な布石となり、国労を追い詰め、瓦解させる大きな転機ともなった。動労は、鉄労と一緒に鉄道労連を結成し、JR総連へと移行した。松崎は最初は羊のようにふるまいながら、最後には狼に化けて主導権を手中に収めた。JR7社の中ではそんな松崎に当然警戒を強める勢力もあり、現在はJR東日本経営陣との一体化を装いながら、JR東日本労組内の権力維持に汲々としている。
 さて、この松崎明の数奇な軌跡をたどってみよう。36年の生まれ、川越高校を卒業して国鉄入社。機関助手となり動労に加入した。55年に日本共産党に入党、59年に離党、61年に日本社会党に入党もしている。そしてこの頃に革マル派議長の黒田寛一に出会っている。この出会いは大きかったと本人も述懐し、63年発行の革マル派機関誌「解放」に「革命的共産主義者同盟全国委員会副議長・倉川篤」とあるのは実は松崎のことだという。革マル派ナンバー2の地位である。新左翼は学生には食い込めるが巨大労組に影響力を及ぼすのは難しく、動労は革マル派の自慢のタネであり、厳しく対立する中核派なんかにはシャクのタネである。内ゲバによる被害がJR東日本労組にも及んでいるのは、むしろ深く食い込んだ革マル派活動家とみなされたからに他ならない。
 松崎はコペ転を図るに際して、革マル派とは縁を切ったと宣言している。思想ではメシは食えないといい、労働者の利益を求めるのにマイナスだといい切る。そう信じている人間は少なく、偽装転向とみる。鉄労幹部の追い落とし、国鉄清算事業団に最後まで残っていた国労組合員1047名のJR各社への職場復帰に真っ先に拒否反応をみせた態度に、甘いヒューマニズムを拒絶する革命中核組織の冷酷さが透けて見えるのだがどうだろうか。
 そんな経過の中でみる今回の脱線転覆事故だが、JR西日本労組の存在がみえない。ミスが重なった運転士に課す日勤教育は、かってのマル生運動の延長であり、労働者の人格の全否定だ。それがいまだに続き、JRの門前で民主主義が立ちすくんでしまっている。いま日本中に見える光景でもあるのだが、この事故の背後に未完の国鉄改革の影がみえる。「官から民へ」の空疎な掛け声に翻弄される働く者の悲鳴が聞こえてくる。迷える心優しき働く者の拠って立つ組織はないものだろうか。
 参考図書/「鬼が撃つ」松崎明著。「JRの妖怪」小林峻一著。「もう一つの未完の国鉄改革」宗形明著。

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