「立原正秋」

評伝で作家を知るというのは邪道かもしれない。気になりながら、何とも気が重くなり、作品に手を伸ばせないでいた。肌合いが違うといっていい。立原正秋である。66年「白い罌粟(けし)」で直木賞を受賞しているが、昭和50年代の流行作家であり、鎌倉在住ではトップの稼ぎ頭といわれた。
 8月は時流に流されない本に挑みたいと思い、書棚を巡らすと高井有一の「立原正秋」に何となく匂いを感じた。91年の出版だから12年前となる。高井は同じ年に「北の河」で芥川賞を受賞。立原との交友は6歳年少だが、64年に本多秋五の自宅で会って以来、立原が亡くなる80年まで続く。2度ならず絶交といわれながらも付き合い続け、加えてこれだけ渾身の評伝で応えるのだから、引きつけるものが立原にあったのだろう。
 立原は生涯に6つの名を持っている。親から与えられた金胤奎(キム・イユンキュウ)、日本に来てほんの一時期名乗らされた野村震太郎、本名を日本読みした金胤奎(きんいんけい)、創氏改名を強いられて金井正秋、結婚し妻の籍に入って米本正秋、そして死の2ヵ月前に立原正秋。名前の移り変わりはそのまま生涯の転変を示している。これでわかるように26年に朝鮮慶尚北道に生まれた。このことが彼の性格と相俟って悩まされ続け、自らの年譜にさえ偽りを書き込み、死の床についってようやく落ち着くというものだった。
 その性格だが、潔癖な直情径行型で、その種の人物にありがちな早嚥み込みのあげくの独断癖もあり、あらゆるところで揉め事を起こした。高井との絶交事件の顛末を紹介する。早稲田文学復刊の話が持ち上がり、その編集長を引き受けた。67年のことで、早速と資金不足となったのだが、早稲田文学会の長老たちに恐喝まがいの文を送りつけ、五木寛之、野坂昭如5万円、石川達三、新庄嘉章、暉峻康隆2万円と編集後記に並べた。そして1年余りで、やってられないと編集長を投げ出すのだが、後任となった有馬頼義が連載途中のものをこれで打ち切るとしたものだから、立原は怒り心頭となった。間に入った高井がとりなすのだが「お前さんとは袂を分つことにした」といい放った。
 私事ながらこんな事件の最中であろうか、当時共同通信大阪支社に勤務していた高井有一を、老人と四十木敏夫で訪ねている。どんな話をしたのか記憶にない。
 立原が日本人として、また文壇で生きると決めた頃に二人は出会っている。鎌倉に住む立原の家は貸家だったが、書斎の出窓の下の地袋には書き溜めた小説の原稿がうずたかく積み上がっていた。流行作家のきっかけを作ったのは、新潮社の伝説の編集者・斎藤十一である。物語の組み立ての巧みとエロティシズムのあるところが斎藤の眼識に適って、週刊新潮に連載小説を書けと迫られた。瀬戸内寂聴もそうだが、この斎藤にかかると作家はみんな落ちる。純文学にこだわる立原の戸惑いなど一蹴してしまって、「鎌倉夫人」の連載となる。読売新聞での連載小説「冬の旅」と続き、これは単行本で89万部、文庫で83万余部と一挙に流行作家に駆け上がる。高度成長で時間とカネを獲得した女性たちがその読者である。読者からの手紙がきっかけで「我儘ですけど、これからさき10年くらいは面倒をみてくださいますか」と申し出られ、浮名を流すことも多かった。学生時代から紺のサージを着こなす、白面の貴公子でもあったのである。それも小説の題材となるのだが、夫人の米本光代、長男の潮、長女の幹への高井の心遣いあふれる描きぶりが心地いい。
 また日本経済新聞にも連載することになり、それが縁で同社の円城寺次郎社長の知己を得て、朝鮮陶磁に造詣が深く、かつ茶道にも通じる同氏に傾倒していく様子も興味深い。
 帝国ホテルを定宿とし、食事は吉兆となり、着るものは銀座壱番館となる一流好みは、大衆小説を書いているというコンプレックスの裏返しかとも思えてくる。評伝を読んだが、やはり作品には手が伸びない。

© 2024 ゆずりは通信