光復節

  こんな8月15日を経験することになろうとは、実に感慨深く、記念すべき日といわねばならない。「太極旗」に向かって、胸に手をあて韓国国歌を聞いた。在日本大韓民国民団・富山県地方本部が主催した光復節に招かれたのである。光復節とは、いわずと知れた日本の占領統治から自主独立を取り戻した記念日。会場は富山・自遊館3階の会議室で、21人が参加していた。わが隣に座るのが地方本部副団長の宋勇くん。何と高校同期で、卒業以来の顔合わせは8月4日の不二越訴訟の学習会。名刺を渡されて驚いた。彼は理系で金沢大学工学部までの記憶はある。名刺の韓国名に添えて、高校時代の名前Mが鉛筆で書き加えられていた。頭の中では、カミングアウトではないかと狼狽したが、こちらの傲慢ともいえる思い過ごしであった。彼の確信的なものが、75年の生涯を貫いているのだ。そんな彼我の差を埋めるべく、招待を受けるではなく、ぜひ参加したいと申し出た。1945年朝鮮で生まれた植民者と、同年富山の地で生まれた在日朝鮮人三世の出会いである。

 富山の街なかを流れるいたち川沿いにあった千歳湯が彼の生家である。戦後まもなく商売の才覚に秀でた父親が始めた。近隣の人が押しかけて、大いににぎわった。商売の才覚と、つい手あかのついた表現になったが、歴史認識の甘さと指摘されても仕方がない。なぜ、祖国を離れ、海峡を渡らなければならなかったか。異国の地で必死に生業となるものを探す難しさは想像を絶するものだったろう。その歴史背景を押さえておきたい。

 1910年の韓国併合から45年の敗戦までの統計を見ると、日本人の朝鮮移住と朝鮮人の日本移住がパラレルとなっている。それぞれのピークは75万人、200万人だ。植民地支配を徹底するために日本で食えない人々を送り込み、収奪搾取を行い、その3倍に及ぶ朝鮮の人々が祖国を追い出された。朝鮮民族を世界にあるコリアンタウンから、漂泊の民族というが、本来は大地にしっかり根をおろした農耕民族。どちらかといえば保守的で、土地からなかなか離れられない人々だ。それをわずか40年の間に大規模な流移民の民族に仕立てあげたのである。

 朝鮮総督府が行った3つの占領政策が拍車をかけた。まず10年代の「土地よこせ」。土地調査測量事業で多くの農民の土地が新たな国有地にされ略奪され、総督府の財政基盤となった。一方、日本人居留民は税負担にあえぐ農民に高利で金を貸して、土地を取り上げていった。そして次が20年代の産米増殖計画による「米よこせ」。朝鮮の方が米増産を効率的に行えると判断し、土地改良、灌漑をやり、地主層を引き付けつつ、米を日本に移出していった。巧妙な政策だった。最後が30年代の皇民化政策による「人よこせ」。日本人男性が兵士に動員され、労働力不足に悩む日本に朝鮮人労働力が計画的に動員配置された。また「戦時下朝鮮の民衆と徴兵」によると、朝鮮人兵士・軍属40万人がアジア・太平洋戦争に動員され、2万人が犠牲になっている。凄まじい植民地政策であった。

 戦後75年を記念する特集では、村山富市・元首相のインタビューが印象的。「日本の多くの良心的な人々の歴史に対する検証や反省の取り組みを自虐史観などと攻撃する動きもありますが、それらの考えは全く、間違っています。日本の過去を謙虚に問うことは、日本の名誉につながるのです。逆に、侵略や植民地支配を認めないような姿勢こそ、この国を貶(おとし)めるのでは、ないでしょうか」。96歳の村山談話にいまだに、頼らなければならないことが残念で、自らをだらしないと思わざるを得ない。

 さて、残り少ない生をどう生きるのか。75歳の植民者には、生まれながらにして持つ加害性が問われているのだが。

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