「ごみ収集という仕事」

 エッセンシャル・ワーカーの最後に「ごみ収集員」がすべり込んでいる。コロナ禍であろうと、首相が辞任しようと続けなければならない必要不可欠な労働、それがエッセンシャルワーク。年末から正月にかけてごみ収積場があふれかえる光景を思い出してほしい。できないとなれば、街中がパニックになる。ゴミ収集作業をこのレベルまで高めてきた人達の責任感と、その苦闘に敬意を払いつつ、一方で委託化がどんどん進み、現場が荒廃していかないか。とても懸念している。

 実はわが大学生活の後半は東京都清掃局でのアルバイトでしのいでいた。1966年(昭和41年)頃である。支給された作業服に編み上げ靴で、北池袋の下宿を出て、午前7時前に池袋清掃センターに到着する。ごみ収集車1台に学生アルバイトふたりが張り付く。とにかく手際よく、収集車に放り込まなければならない。要領悪く、道路に巻き散らかしたら、その片付けが時間ロスになる。運転手が仕切っていて、怒鳴られることもしばしば。段ボールが運転手の余禄で、アルバイトは車の隙間に挟み込み、ご機嫌を取るという関係でもあった。ゴミで一杯になった収集車は江東区にある夢の島まで運ばなければならない。往復でざっと1時間半。この待ち時間が学生アルバイトにとってありがたい。商店の軒先などで、文庫本を読む。昼食もごみの多い八百屋が余りものをくれたり、運転手が段ボールの見返りにラーメンをご馳走してくれたりと自分で払った記憶がない。午後2時前後には終わり、風呂に入って帰る。日給で1200円前後(いまの感覚では1万円程度)、週給で払ってくれた。週末その金を懐に新宿に出向き、紀伊国屋で手ごろな本を物色し、待ち合わせた友人と痛飲する。東京都清掃局はわが青春の1ページを支えてくれた。今回は懐かしいごみ収集に焦点を当ててみた。牧歌的でもあった50年前とは大違いの現実である。

 「ごみ収集という仕事」(コモンズ)。著者は藤井誠一郎・大東文化大学准教授。ごみ問題を最初に手掛けた亡き寄本勝美早大教授に連なる現場主義を貫いている。新宿区の清掃センターで自ら清掃車に乗って考察した力作である。収集現場のマネジメントがしっかりできれば、どんなことでもできる。とにかく待ったなしの苦情に即断即決が求められる。例えば、歌舞伎町だ。意外ときれいだが、風俗ややくざが入居している雑居ビル対策を想像する。税金を払っているのだから、当然の権利のように主張するのがほとんど。強制指導できる権限もなく、ただお願いするしかない。放置しておけば、抗議の電話が殺到する。上から目線のお役所仕事では全く通用しない。厳しくても、優しすぎてもダメ。この人を説得しない限り、解決しないのだから、自分がやるしかない覚悟と説明根拠を明確にする能力が必要。ふれあい指導と名付けているが、いろいろなケースを研究し尽くし、苦情相手をごみ収集の理解者に仕立てあげていく。清掃現場という日陰の職場で、これほどのレベルに引き揚げてきた人材が連なってきたことは、どれほど称賛してもし切れない。

 一方、外部委託化が進んでいる。仕組みは複雑で、23区が清掃協議会を組織し、東京環境保全協会に特命随意契約で一括依頼し、協会加盟51社が独占的に請け負っている。更に複雑にしているのがヒトの問題だ。この加盟社が人材派遣で行っていたが、違法脱法が多く、続けられなくなり、職安法に定められた労働者供給事業を行う労働組合の組合員として就労している。日雇い労働者である。しかし、実働時間の割に収入が多いことから、希望し継続する人も多い。問題は偽装請負を避けるため指示命令が行き渡らず、作業がブラックボックス化していること。ここまで到達した現場のレベルが維持できないリスクである。

 さて、ごみ袋を開いて選別しなければならないこともある。破袋選別作業というが危険極まりない。注射器や注射針、ガスが残ったカセットボンベ、とんでもない異臭を放つ薬剤などだ。誰しも一度はこんな現場を見ておく必要がある。

 

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