「花一輪といえども」

木下順二が逝ったのは昨年10月30日。享年92歳であった。劇団民藝が追悼公演として「沖縄」を演じた(4月7~18日、新宿紀伊國屋サザンシアター)。それを見ながら、彼の母を送る手紙を思い出した。
 「母 三愛(みえ)子、1972年3月11日、18日間ほどの臥床ののち、満93歳に1カ月を余して安らかに昇天いたしましたので、ひとことお知らせ申しあげます。病名は脳栓塞ですが、実際には何の苦痛も伴わぬ、老衰による平穏な終焉でありました。
 亡母と私とは、お互いそれぞれ、死後の儀式はすべてやめようと、何度も(第三者の前でも)話しあって約束しておりました。それはプロテスタントの母親が無宗教の息子に説得されたなどというには、その都度あまりに自然な合意であり、合意というより、各自それぞれの発想をもとにした一致だったと思います。
 その発想の中身をここに長々しくしるすことはさし控えますが(いずれどこかに書くつもりですが)右の事情に従って今回もこのお知らせをお届けするのみにとどめ、通夜、葬儀、告別式など一切おこないません。この手紙落掌のおり、お受けとり下さった方々おひとりびとりの自然なお気持に添うて、一度だけしばらく故人のことを思って頂ければ、それが故人の最も喜ぶところ、以て霊まったく安まるというのが、私どもの本心であります。
 そのような次第ですので、御香料そのほかも勝手ながら花一輪といえども御辞退申しあげます。一輪のお志を受けてしまうことは、大輪の花環を御辞退する理由をなくさせてしまいます事情、どうか御諒察くださいますよう。
 このお知らせに対する御返事、御弔詞などもまた一切必ず御無用とお考え下さりたく、重ねてお願い申しあげます」。
 茨木のり子がエッセイ「花一輪といえども」に取り上げている。この世の俗悪無残を一切受けつけまいとする気概に打たれた、という。長文の引用となったが、この達意の文章を一言一句味わってほしいからである。いつか剽窃といわれようが、かくありたいとメモしていた。
 さて、「沖縄」である。安保の熱気が冷めやらない63年の初演。60年秋に中国に劇団を率いて訪問した時に、中国の観客は安保闘争よりも沖縄に異常な反応を示した。帰国するや、沖縄に関する資料を手当たり次第に読み始める。木下の手法は、過去を扱うにせよ現代を描くにせよ、その世界に現実に自分がいると思えるまでに素材を調べあげ、その中に自分がいるという実感を手がかりに戯曲を作りあげる。沖縄を訪れてはいない。思想の純粋培養で作品が成り立っている。
 「どうしてもとり返しのつかないことを、どうしてもとり返すために」。この絶対に矛盾する言葉を、主人公“秀”のせりふとして自然に書くことができたとき、ああ、やっと“ドラマ”が掴めたという。
ことばについて、あるいは言葉の誤りについて、きわめて厳格だったことは知られている。なかでも、とりわけうるさかったのは鼻濁音の問題だった。民藝の幹部女優が、「きみ、いま鼻濁音ができていなかったよ」と何回も注意を受けたという。
 3歳の孫に「かにむかし」を読んでやっている。木下順二の手になる、さるかに合戦だ。「こしにつけたる、それなんだ」「日本一のきびだんご」「ひとつくださり、なかまになろう」「なかまになるなら、やろうたい」。このリズム、言葉のおもしろさ、豊かさ。そういえば、成人した3人の愚息たちにも、何度も読み聞かせてきたのだが、いまだに手紙など受け取ったためしがない。詮無いこととは思うが、孫はまた別である。そう信じていたい。

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