デザイナー川崎和男

こんな男がいるのだ、それが率直な感想。ちょっとのぞいたつもりが最後まで、久方ぶりに聞く刺激的な講演だった。2月17日、石川県地場産業振興センター。テーマは「先端のデザイン」。スクリーンに映し出されるのが、人工心臓、ロボット、小さなアイソトープつまり原子力発電設備。才能が映像からあふれ出ている。すべてデザインイメージが先に出来て、それを追いかけて製品を生み出されている。インダストリアリズムの終焉とデザイン主導を叫ぶ。デザインを付け足しぐらいにしか考えない凡人に真っ向挑戦している。更に驚かされたのが、男は車椅子。ホーキング博士を彷彿とさせるではないか。デザインディレクターにして医学博士、名古屋市立大学大学院教授で、グッドデザイン賞審査委員長も。
 川崎和男、昭和24年福井県武生市生まれ。団塊の世代だが、そう呼ばれるのが大嫌い。医学部志望が破れ、1年浪人して金沢美術工芸大学工業デザイン科に。現学長の平野拓夫に厳しく仕込まれた。就職先が東芝の意匠部。そこで初めてコンピュータに出会う。これからという28歳の時に、タクシーに乗っていて追突された。正月2日の深夜だ。大きな爆発音が背中に響き、脊髄損傷に。生涯車椅子の宣告を受けた。同乗していた恋人は去っていった。しかし、彼の人生はそこから始まったといっていい。
東芝を辞め、東京赤坂にデザインスタジオを開いた。悲惨を忘れたいためにひたすら稼ぎ、入れば使い果たした。自暴自棄になった川崎に、アルバイトで仕事を手伝っていた女性が故郷武生に帰ろうといってくれた。現在の奥さんだ。ところが東京では2~3日やって300万円になる仕事もざらだったが、福井では全く仕事がない。高校時代の友人が生なめこのパッケージデザインを発注してくれた。その版下の仕事をしながら、涙が止まらなかった。
友人というのはありがたいもの。次にはドラフター(製図台)で仕事が出来ないのを見かねて、当時170万円もしたワープロを貸してくれ、次にはコンピュータとプロッターも揃えてくれた。鋭い直感は、これからのデザインはコンピュータだと予見させた。あらゆる雑誌、文献を漁るように読み込み、電卓から安いコンピュータまで買い込んだ。年2回以上はアメリカに出かけて展示会を見学し、ソフトを買い集めた。そして、ぶち当たったのがパソコン上でのCAD。その設計通りに、紫外線硬化樹脂にレーザー光線を照射するとそのまま光造形して製品になってしまう。トロントでの2年間、妻に付き添われてトレーニングをし、この手法が産業全体の構造を大変革すると確信した。
恐らくそんな状況を天は見ていたのであろう。名古屋市立大学が芸術工学部を新設することになり、川崎を教授として招へい、すべて望み通りの施設を揃えてくれた。あとは堰を切ったように、デザインがあふれ出てきた。自分の体内に埋めこまれたボルトナットのデザインが気にくわなくて改良し、体内の臓器デザインや器具デザインは医療の知識がなければ挑めないと知って、ついに独力で医学博士号を取得してしまった。もちろん車椅子も自らの設計で、カラフルだ。講演が終わり、普通の車の2倍の長さがあるリムジンに乗り込んで帰っていった。
いま、川崎和男デザインのメガネに変えようと思っている。わが60歳の門出にふさわしいイメージチェンジであり、自らへのはなむけだ。時同じくして、三男の大学生が「夜と霧」をリュックに入れ、冬のアウシュビッツに旅立った。親離れの儀式でもある。
参考・「プラトンのオルゴール」「デザイナーは喧嘩師であれ」「デザインは言語道断!」川崎和男著

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