「僕の叔父さん」

中学時代に、夏休み、冬休みに何となく集る場所があった。美容院を経営していたが裏木戸から出入りができ、解放的なこともあり、誰でも歓迎された。同級生だけでなく、高岡高校に進学した兄貴も時に話に加わった。どんな会話の弾みだったか、「中原中也の詩を読んだことがあるか」とその兄貴が詩集を持ち出してきた。「へー。高校へ行くというのはこういうことなのか」。知的なものへのあこがれ、そんな気持ちを初めて抱いた時である。
 宗教学者の中沢新一が、5歳の時におばさんが結婚した。その結婚相手が歴史学者の網野善彦。いわば義理の叔父に当たるが、中沢は長じてからも“叔父ちゃん”と呼んでいた。この甘えたような呼び名に、その人柄と学問への並々ならぬ敬愛の念を込めている。最初の出会いの日から、「典型的な冗談をいい合う関係」ができた。この関係の中からは権威の押し付けや義務や強制は発生しにくい。そして精神の自由なつながりの中から、重要な価値の伝達がしばしば起こる。例えば、伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)の絵巻物。「見てごらん。こういう絵の真ん中の貴族やなんか気にしなくてもいいんだ。大事なのは、隅っこの描かれた人々の姿なんだ」。「おじちゃんは悪党の研究をしているの」「ごろつきみたいな連中で、博打をしたり、海賊や山賊だったりするが踊りのうまい連中もいるよ。でも実は神様に近い連中なんだ。絵の端っこの方にしか登場しないけど、そういう人たちが歴史を動かしてきたんだ」。という具合に、自然と網野史学的な民衆史のレッスンが行われ、何と40数年の間、何よりも自由で、いっさいの強制がない、友愛のこもった関係が持続した。男には父親でない男が必要だといつもいっているが、その通りだ。
 甥の中沢の眼に印象深く映っていたのは、「宗教でもコミュニストでもない別の道」があると信じ、歴史学の「常識」に抗って闘い続けた叔父の孤独である。非農業民という概念を引っさげ、歴史学の常識に“飛礫(つぶて)”を持って挑戦した。飛礫こそ権力へのもっとも原初的な抗議形態。10世紀末に藤原道長が、叡山で受けている。権勢を一身に集めた道長に飛礫ははばかることなく飛んできた。飛礫にも歴史があるのだ。都立北園高校で教鞭を取っていたときのあだ名が「光の君」。一年中ほとんど同じ背広を着て、袖や腰の辺りがテラテラに光っていたからだという。いいエピソードだ。2月27日、肺がんで死去。享年76歳。
 網野の訃報を聞き、中沢は長大な追悼文をつづった。お互いが学問を仲立ちにして、人を理解し、また人に理解される喜びを率直に語っている。「僕の叔父さん」(集英社新書 660円)。
 歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力から自由になるためのもの。これが網野史学の真髄。主著「無縁・公界・楽」は、隆慶一郎の小説で実を結び、十分に堪能させてもらった。南北朝テーマの「異形の王権」が天皇制との格闘論である。これからの楽しみの書でもある。五木寛之の「風の王国」もいい。そして、塩見鮮一郎の大作「車善七」全3巻も買い込んだ。非人の世界を活写したという書評を読んでのもの。なぜか、その世界に惹かれる。
 ところで中学時代に通った新湊の美容院の兄弟は、矢野博明・矢野神経内科病院長と矢野忠・明治鍼灸大学教授である。特に忠君は、全く偶然に池袋の書店で出会い、北池袋のわが下宿をそのままそっくり引き継いでくれた。不思議な縁である。
 そして、ぜひ見てほしいのが、秩父事件を題材に映画化なった「草の乱」。12月12日富山県民会館で上映される。何が何でも駆けつけてほしい。

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