1949年末、スターリンは中国革命(中華人民共和国の樹立)と連携することを決断し、年明けとともに日本での反米革命を指示し、朝鮮での武力統一闘争を支持支援することに踏み切った。50年6月25日午前4時、北朝鮮軍が38度線を越えて進撃を開始する。ソウルはあっという間に陥落し、韓国軍は3か月で釜山まで追いつめられる。米軍は北朝鮮軍の後方を突く仁川上陸で攻守は交代する。補給の続かない北は敗走を重ね、中国国境まで追いつめられる。ここで中国人民解放軍が大挙して参戦。ここでまた攻守が逆転し、ソウルは再び北の手に落ちる。米軍は最新兵器を投入し再反撃に出て、双方が38度線周辺で膠着状態となるのが51年。このままでは第3次世界大戦になることを危惧したトルーマンは、強硬策に打って出ようとするマッカーサーを解任し、またスターリンが急死して、ようやく休戦協定が結ばれた。53年7月27日のことである。
金日成が南進を画策し、スターリンが了解、毛沢東が支援を約束して始まった。死者の数は、南北併せて300万人から400万人とされ、南北の総人口がこの時期2865万人なのだから1割を超えている。兵士以外にも多くの人が虐殺された。北であれ、南であれ、撤退したあとの牢獄は囚人の死体でみたされていた。
そして南北の分断は固定化された。北からはキリスト教信者が死ぬか、南に逃れるか、棄教するかで消えてしまった。南からは共産主義者の運動が消え、北に向かうか、パルチザンになった者たちは殺されるか投獄され、マルクス主義は禁句となった。結果として離散家族1000万人といわれる悲劇を生んだのである。
ロシア史に通じ現代朝鮮史にも取り組む和田春樹の「朝鮮戦争全史」(岩波書店 02年刊行)は文字通り浩瀚(こうかん)である。「かくして、東北アジアの国際構造が朝鮮戦争から姿をあらわしたのである」と結ぶが、その知的誠実さから信頼できる文献といえる。朝鮮戦争によって、大きな利益を得たのは日本であったとする和田の指摘は厳しい。
吉田首相は戦争への協力を主体的におこなわず、米占領軍の命令には無制限に従うという形で全土を米軍の基地として提供した。これが講和締結にあたって、憲法9条と軽武装と日米安全保障条約という三位一体の体制が確立することにつながった。朝鮮戦争の特需は膨大なもので日本経済の再建復興にとって大きなバネとなった。そんな状況下で、対岸の火事を見るように韓国に対しても、朝鮮民族に対しても同情心というものを持ち合わせなかった。自分たちだけが平和であればいいという意識、地域の運命に関する無関心、地域主義の否定となって、横田基地からB29が飛び立って、北朝鮮を最後まで空襲、空爆したことに気付かずに終わる精神の構造であった。アジア連帯にとっての致命的な資質欠如である。
さて、被虐的な歴史観といわれようがこれだけは肝に銘じてほしい。歴史のもしであるが、日本が敗戦の受け入れをあと1か月早めていたら、つまり8月15日ではなくこれが7月であったとしたら、ソ連の8月9日の参戦はなかったのである。ということは、朝鮮の分断もない。もちろん広島・長崎の原爆投下もない。そして、もう一つのもしだが、当初計画されていた朝鮮の信託統治を李承晩も、金日成も受け入れておれば、曲折はあったにしても統一は保たれていたのではないか。
最後に、朝鮮戦争はスターリンの戦争であり、彼自身の対米戦争であったということ。ロシア革命はスターリンという後継者を選ぶことによって、彼の際限のない猜疑心が国家に巣くって、粛清に次ぐ粛清惨劇を生み出し、国際的にも大きく歪めていった。7月27日は北朝鮮にとっては戦勝記念日らしいが、こんな振り返りもあっていい。朴裕河(パク・ユハ)が「被害者は赦しを、加害者は慎みを」と訴えた声がよみがえる。