善魔

東京の山谷で活動する神父さんが独り言のように「今の世の中って、ゼンマばっかりだ」とつぶやいたのだという。ゼンマって何だろう。知らない言葉だなと思っているうち「善魔」だとわかった。自分を棚上げにして善を語り、他人の悪ばかりをいい募る人間を指すらしい。神父さんいわく、「善魔ってイヤですねえ、やっかいですね。辺見さん、まだ悪魔の方がいいよ。悪魔のほうがよほど魅力的だ」。辺見さんとは、作家・辺見庸とのこと。
 若い人のために、山谷を説明しておこう。「さんや」と呼び、旧台東区のドヤ街。日雇い労働者のための簡易宿泊所がひしめいている。“あしたのジョー”の舞台となった泪橋もこの区域だ。大阪の釜ケ崎と並び称されたが、この地名はもうない。辺見は共同通信をやめたあと、5年間ここに住み、自らの恥辱を実践した。彼の言だ。
 多くの人間は、社会改革だとか人間の解放だとか大層なことを唱えながら、リアルな人間身体を、自己身体を含めて、無意識に思考の視圏から排除している。そこに偽善と背理のにおいを嗅ぎ取る。その臭いを自分自身も漂わせていることに我慢ならない。ある時、よだれ、鼻汁はもとより、糞便をも垂れ流す“不可触民”である行き倒れを、吐き気を抑えながら世話をした。その時、ほとんど名状しがたいような衝撃を受けた。凄まじいその臭いもさることながら、それに対する自分の呆れるばかりの脆(もろ)さと耐性の無さに、である。アパートに帰り、作業服を執拗に過ぎるほど洗い落とそうとする自分に、である。結局は疲れ果て、山谷から逃れることになった。
 これをして誰も、辺見を、変節、転向とも呼ぶことはできない。それよりも、小心なるものはもう“おためごかし”の言辞を吐くことはできない、と思い知らされるばかりである。冒頭のそれは、その山谷で、キリスト教会が炊き出しを行っており、その時の神父とのやり取りである。
 しかし、そんな重たい警句はあるにせよ、善魔といわれようとも、きょうはもの申さねばならない。06年度の教科書検定である。沖縄での集団自決は、日本軍に強制されたものかどうか明らかでない。これが検定意見だという。沖縄の人たちに面と向かっていえるのか。従軍慰安婦の軍関与も然り。歴史認識を問う韓国、中国の当事者に向かっていえることだろうか。安倍官邸の内弁慶ぶり、が際立ってきている。「それほどまで、自国の歴史を貶(おとし)めなければならないのか」というのが、安倍首相に連なる人脈の考え方。そのために強制はしていない、勝手に自決したのだ。軍はそこまではやっていない、金のほしい輩が女を集めたのだ、と薄汚い瑣末事を取り上げる。ブッシュにも、胡錦濤にも、盧武鉉にも、またワシントンポストの拉致批判に、反論もできないし、通用しない。潔さとは程遠い。未来を担う子供たちに、世界に通用しない歴史を教えて、何とするのだ。文科省の官僚を恫喝してのことだが、反論しようの無い人間しか相手にできないのか。
 現在の状況を一言でいえば、経済はグローバリズムに同調せざるを得ず、国際競争力と称して貧者の群れを創出し続けるだけ。政治では、抵抗しない、従順な無知なる民を創り出していこうとしているだけである。外交は日米同盟強化しか選択肢はなく、米軍の世界戦略に自衛隊を補完軍隊として組み入れられていくしかない。本当にこれでいいのか。しかし、この問いは、遠く、虚しく響くだけである。
 さらにこの際だ、いわせてもらう。日本共産党に問いたい。東京都知事選だ。東京の教師達の苦悩をどの程度に理解しているのか。都教委の横暴をここで止めなければ、教師達の良心の火はかき消されてしまう。ここは石原都政の退場に絞って、統一戦線をなぜ組めなかったのか。独善はもう許されない、あなたたちこそ善魔である。数十年後の民主統一戦線など、もう誰も信じていないのだ。もし、浅野票に共産党・吉田票が上積みされていたら、結果は変わっていた。そんな現実だけはみたくないものだ。
(参照「国家とメディア」魚住昭著・ちくま文庫。「審問」辺見庸著・毎日新聞社)

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