西大門刑務所跡地

韓国ソウル6日間の旅である。案内をしてくれるのが全惠松さん。ジョン・ヘソンと読むが、旦那は「おけいちゃん」と呼んでいる。昨年12月、この夫婦と鹿児島を旅し、次回は韓国と約束した。知覧特攻記念館を見学した時にピーンときて、韓国庶民の日常生活、そして現代史の爪あとをぜひ、とこちらからお願いしたのである。図々しいお願いを聞き届けてもらった上に、予想より早く実現することになった。
 4月1日。総勢4人、それぞれ大阪、鹿児島、富山からだが、仁川空港で待ち合わせることになった。宿泊は4LDKのコンドミニアム。ソウル市警の真ん前にあり、毎日部屋掃除もしてくれて、ホテルより快適で、何よりも安上がりだった。そこから歩いて10分くらいのところに、最初の訪問史跡「西大門刑務所歴史館」がある。チェックインもそこそこに、寒風をついて出かけた。
 1908年、西大門刑務所は日本人の手で新築された。敗戦を前に徹底的な証拠隠滅を行われたが、同歴史館は、忘れてなるものかと再建されたものだ。外見は、小樽にある倉庫群に見える。入場料は1500ウオン(192円程度)だ。その日は年配者が多かったが、子供たちも多いという。ここでは「日帝」が当たり前の呼び方である。多少の違和感もあるが、これくらいは甘んじて受け入れなければならない。日韓併合を挟み敗戦に至るまで、日帝の弾圧に次ぐ弾圧策である。いかに反日、抗日闘争が激しかったかということだ。数え切れない義兵蜂起が起こり、多くの活動家を逮捕、投獄、処刑する必要に迫られたのである。いたるところに小さな刑務所網が張り巡らされ、その頂点といっていい。
 展示は恐ろしいほどリアルだ。爪刺し拷問、電気拷問、立ったままで過ごさなければならない箱拷問などが、実物大の再現模型としてある。これらは実際に体験でき、女性への拷問現場からは悲鳴が聞こえるようになっている。見るのも辛いが、響くこの悲鳴は、耳を塞ぎ、逃げ出したい衝動に駆られる。死刑場も生々しい展示だが、見せしめの公開処刑の写真は凄まじい。韓国のアウシュビッツといっていい。獄死した殉国の烈士たちの名は追悼碑に刻まれている。02年には小泉前首相も訪問したという。ワイツゼッカー元西ドイツ大統領のように、心からぬかずいたという話はない。空疎な言葉で未来志向というより、この現場で河野談話を確認する方が、日本の平和外交をどれほどアピールできるかわからない。
 日本の高校生が修学旅行で韓国を訪れるが、ぜひここで韓国の高校生と交流してほしい。一方的な糾弾にはならない。なぜなら、敗戦後この刑務所は、北と連携する共産主義者たちを収容する場に代わったのである。同じ民族が日帝に代わって、同じことを繰り返したのだ。残虐非道な日本人と糾弾しても、説得力を持たないことは明白である。この大きな「なぜ」を日韓の高校生から聞いてみたい。生きた教材にしてほしい。歴史教育は教科書の言葉いじりで、片付くわけはない。
 さて訪問4日目、戦争記念館をひとりで訪れた。韓国での戦争は50年から53年の朝鮮戦争を指す。広大な展示の大部分はこの朝鮮戦争で、英語、中国語、日本語のアナウンスが選択できる。45年8月15日の解放から5年後、同じ民族が争う戦争に発展しようとは誰が予測できたであろうか。ソウルは争奪のシンボルとなり、最初は北朝鮮軍に、次が米軍主力の国連軍に、更に中国義勇軍に、そして再度国連軍に占拠された。老人が南北二つの旗を掲げて、今度はどちらなのだと、よろよろと歩く映像が印象的だった。日帝支配のあとは、米ソの代理戦争の道具とされたのである。特にスターリンの野望といっていい。休戦はスターリンの死を待つしかなかった。そして戦争状態が完全に終わったわけではない。韓民族の悲劇と、簡単にいうわけにはいかない。帰りの足は、とても重いものだった。
 そして、最後に大きな衝撃を受けた。韓国の人々の多くが統一をそれほど望んではいないということだった。次回も韓国篇を続けたい。

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