「ムサシ」

巌流島決闘で、佐々木小次郎(小栗旬)は死ななかった。検死役の藩医に「お手当てを!」と叫び、疾風の如くムサシ(藤原竜也)は立ち去ったが、命を取り留めたのである。爾来6年、小次郎はひたすら無念を果たさんと、ムサシを探し求めた。元和4年(1618)夏、ところは鎌倉。宝蓮寺なる小さな寺で、寺開きの参籠禅が行われようとしている。導師となるのが京都大徳寺の長老・沢庵和尚(辻萬長)、客人として能狂いで将軍家指南役の柳生宗矩(吉田鋼太郎)、宝蓮寺再興に尽力した大檀那・筆屋乙女(鈴木杏)、同じく木屋まい(白石加代子)。そして、この寺の作事を務めたムサシが加わっている。そこに小次郎があらわれる。ムサシ憎しと捜し求め、ここ宝蓮寺でついに宿敵をとらえた。今度こそは五分と五分、決着をつけるべく果たし状を突きつける。
 風に揺れる竹林、能舞台と橋掛かり、竹林にかかる満月と背景が整い、鳴り物入りの『ムサシ』は舞台の幕を上げた。台本を書いたのが井上ひさし、演出が蜷川幸雄、プロデューサーがホリプロ・堀威夫。三役そろい踏みといっていい。企画は20年前に、ニューヨークで持ちあがったが挫折している。多分井上のやる気が高まっていなかったのであろう。それが3年前に、「ムサシ」を書き上げないと死んでも死に切れないという心境になった。「堀さんとのきっかけで始まった企画だから、必ず書き上げる。でも、必要でなかったら捨ててくれ」という堀への電話でスタートした。
 4月1日、彩の国さいたま芸術劇場にいそいそと出かけた。S席10,500円はこまつ座ファン倶楽部で先行予約したのだが、何とネット市場で24,000円の値がついている。開演1時間前だが、与野本町駅からそれらしい人たちが急ぐ。取り敢えずプログラムを求めて、コーヒーを飲むことにする。夫婦で来ている旦那の方が、プログラム1,800円というのは、やはりホリプロの金儲け主義のせいだな、と憤慨しているのを聞く。早速収支を考える。東京・大阪で計100公演として、ざっと入場料収入20億円。これだけの役者陣を3ヵ月拘束し、舞台製作、宣伝費などをいれると、うまくいってトントン。素人ソロバンを弾いてみたが、複製ができない演劇ビジネスの限界でもある。
 さて立ち稽古が始まってから、陣中見舞いと称して、蜷川はじめ主だった役者が鎌倉にある井上邸を訪ねている。もちろん遅筆堂の異名をとる井上のこと、まだ台本は完成していない。執筆中は人に会わないというが、さりとてこのメンバー、むげに帰すわけに行かず、ようやくの思いで出てきた井上に一同驚いた。ヒゲは茫々、やつれ果てている。この台本に精魂のすべてを傾け、どれほどの困難に立ち向かっているのか、一同言葉もなかった。そんな中でも、井上はすかさず俳優達を鋭く観察し、この俳優にはこのセリフをと、いわば当て書きをする。それが俳優達にピタリと来て、演技の乗りが全く違ってくる効果をもたらす。日々届く台本に、不安を覚えながらも楽しみだったという白石加代子は、役者冥利に尽きるともいうが、破綻すれすれの逸脱空想で、舞台は動く。
 小次郎が、まいの実子であり、さるやんごとなきお方の隠し子で、皇位継承順位18位に全員が驚く。ムサシが小次郎を討てば、いわば朝敵となってしまう。乙女の父がこれまた遺恨で殺されたのがわかり、決闘を止めようと画策する側が、敵討ちといきり立つ。敵討ちの場所と時間が、ムサシ・小次郎の果たし状と同じになるという設定。何か変だと感じたムサシが、小次郎にこれはわれわれの決闘をやるしかないと決断する。結末はどうか。この遺恨繰り返しの決闘を何としも阻止しようとしたのは、不遇な死を迎えるしかなかった亡霊たちの仕業であったという意外なことに。
 思わず3月26日、がんで亡くなった高成玲子富山国際大学教授(62)が告知を受けた時に友人に送ったメールを思い出した。「あと六ヶ月経ったら私はこの世にいないのに、道にはどうしてこんなに風が爽やかに吹いているの」「どうして街にはこんなに明るい音楽が流れているの」「大和で食べたチョコレートパフェがどうしてこんなに美味しいの」。
 報復の連鎖を断ち切るために、苦しさの余り自死を選ぼうとしている人も、もっと死者の声を聞かねばならない。ということだ。

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