「打てば響く」

なだいなだ、逝く。「ぼくは、がんとの付き合いで、なんとか頑張っていますが、白状すると、ちょっときつい」と老人党のブログに書いたのが5月28日。その9日後、6月6日に息を引き取るのだから、がんの最期というのを教えてくれている。ブログ名が「打てば響く」と気取っていたが、その名に恥じないものだった。追悼は各紙誌にゆずることにして、意識障害が出て来るこの10日間前後が気にかかる。家族のいないひとりのそれはどんなものか、と想像する。ちょっときついというが果たしてひとりで耐えられるのか。意外と意気地がないのである。
 70歳以上に限ると、がんで死ぬか、心臓麻痺や脳梗塞で死ぬか、あるいは誤嚥性や感染症による肺炎で死ぬか、の3つにひとつ。何ごともなく老衰となれば、ほとんど認知症を伴っている。最近では、選べるならがん死が常識となっている。
 そんな思いのところに打てば響くように、格好の教科書が出てきた。「小笠原先生、ひとりで家で死ねますか?」(朝日新聞出版)。上野千鶴子の質問に応える形で、眼からうろこの解決処方を提示してくれている。小笠原文雄(ぶんゆう)医師は48年生まれで、岐阜県羽島市の開業医。ぶんゆうと読ませることでわかるが住職でもある。大阪大学で数学者を目指すつもりでいたが、20歳で亡くなった姉のこともあり、名古屋大学医学部にはいった。そういえば最近出会った若き在宅医の舩木君、遠藤君、蜜山君はいずれも名古屋大である。何かあるのかも知れない。
 小笠原医師の融通無碍は説得力がある。例えば、夜間セデーション。痛みや急変を心配してまんじりともできない夜の不安が解消される。「今日の治療指針2012」で認められてれている方法で、睡眠薬の力を借りて夜間は深い眠りに入り、朝が来る頃に薬の力が切れて自然と眼が覚める。眠っている最中に亡くなる場合もあるが、その原因はセデーションにあるのではなく病状の変化による、というもの。これなら夜間に看護や介護の人を煩わせることも必要ない。これに尿道留置カテーテルを挿入すれば、鬼に金棒?となる。過剰医療だ、おむつ交換の手間をかけないケアは非人道的、家族ならおむつ交換できてあたり前と批判する声もあるが、おひとりさまにとって贅沢はいえない。夜8時間余の平穏を得られると思えば、これほどありがたいことはない。これならひとりで死ねる、というものだ。
 もうひとつ、在宅ホスピス緩和ケアを選択すれば救急車を呼んではいけない。もし病院に運ばれたならば、本人の意思とは関係なく、死を回避するあらゆる延命治療が強制的に行われていく。最期は自宅で穏やかにという希望とは裏腹に、呼吸が止まっていたら人工呼吸器が付けられ、過酷な闘病生活を送らなければならない。救急車を呼ぶな、かかりつけ医か訪問看護師に連絡しろという意思を明確に周囲に伝えておき、万一救急車を呼んだ場合は、救急隊員に正直に謝り、帰ってもらうことである。
「在宅ひとり死」は孤独死ではなく、「希望死・満足死・納得死」であるという説得が何となく胸にすとんと落ちていく。ぜひ、一読すべきであろう。
 最後に、なだいなだも融通無碍だった。書評誌「ちくま」で連載した「人間、とりあえず主義」を愛読していたが、最近ではもう怖いものはないと居直って、ローマ法王の生前辞任を挙げ、天皇も終身縛られることはない、退位も選択肢といい、黒田夏子の「abさんご」を横書きの目新しさだけではないか、と毒づいていた。何よりもちょっとは深く考える政治家はいないものかと、何度も何度も嘆いていた。
 なだのとりあえず主義からすれば、とりあえず改憲を掲げる政党に3分の2を与えないことだろう。

© 2021 ゆずりは通信