在宅ひとり死

「夏草やものぐさここに極まれり」(拙句)。庭の草取りを一日延ばしにしていたら、ついに始末に負えなくなった。折しも投げ入れられた若手造園師のチラシの「早くて、安くて、とてもていねい!」というコピーに惹かれて、頼むことにした。ほっと肩の荷を降ろした気分である。
 肩の荷を降ろすといえば、「在宅ひとり死」だ。前回の続きとなるが、ここは自らに、そして生活苦にあえぐ愚息どもに、いい聞かせるつもりで宣言しておきたい。
 親父は在宅ひとり死を選択する。どうなろうと構うなということだ。死に目に会おうなんて、さらさら思うことはない。臨終近いという知らせがあっても、お前らの生活を大事にしてほしい。サッカーの応援、ピアノの発表会に出かけていると聞く方が、よほど楽しく想像できてうれしい。葬儀不要も忘れるな!事前指示書は書斎の防火金庫にはいっている、というもの。
 在宅ひとり死を妨げる障害の筆頭が家族であるという。看取りを家族でしなければならないということから、入院や施設入居が自分とは関係なく進められていく。危篤と聞いて駆けつけた家族が119番してしまって、集中治療室に押し込められ、スパゲッティ症候群にされてしまう。望まない病院で死ぬということは、かの小笠原医師にいわせれば「孤独死・敗戦死・刑務所死」ということになる。この場合の孤独死とは、周りに誰かがいても誰とも心が通わない。本当の孤独死は病院で起きている。敗戦死とは、手術や放射線、化学療法で挑んだものの刀折れ矢尽きて、最後は治療法が無くなり、白旗が挙げて死にゆくこと。刑務所死とは、最も生命、安全は守られているものの、全く自由が無く好きな食べ物も、趣味も禁じられて、牢獄に押し込められて死ぬことを指している。
 更に、上野千鶴子は家族を抵抗勢力とも位置付けている。高齢者の年金や資産を使わない、使わせないからだ。年を越すかどうかで相続税が変わる時に、年を越すまで何とか延命させてほしい、と懇願する家族もある。また、苦痛を余儀なくされてからも、親に1分1秒でも長く生きてほしいと願うのは子のエゴイズムではないかと断じている。
 こんな意に反した結末を迎えたくないから、ほったらかしも決して悪いことではない。おひとりさまこそ、人生最期の当事者主権を遠慮なく行使できるというものだ。
 在宅での最期を希望し、在宅ホスピス緩和ケアチームによる納得あるケアを受けて、満足感を感じながら旅立てる。文字通り「希望死・納得死・満足死」といえる。そして小笠原内科の理念からすれば「在宅緩和ケアで安らか・大らかは当たり前、更に朗らかに生かされ、最期は在宅ホスピスで清らかに旅立ちたい」である。確かにここまで揃えば理想だが、何か欠けているように思えてならない。死にゆくものの品性である。
 「癒しを提供するものは自ら癒されてなければならない」。小笠原医師は経営者の心得として、こうスタッフを思いやっている。在宅はいわば患者にとってこの上ないものだが、医療者にルームサービスをさせる非効率とごみ屋敷まがいの自宅にも足を運ばせる難儀を強制している。死にゆくものだからこそ、最低限の想像力を働かせなければならない。「こんな遠いところまで何度も何度も足を運ばなくても結構です。先生が疲れてしまわれたら、私が一番困るのだから」とスカイプを自ら導入した患者が出現したという。16年前に亡くなった女房は上野千鶴子の中学同期でもあるが、最期の時に慌てふためく夫の自分がナースコールを押そうとした時にその手を押し止める仕草を見せた。こんな亡妻をいまでも誇らしく思っている。
 さて、在宅ひとり死を宣言し、肩の荷を降ろしたのだが、少しばかり残された命をどうするかである。余裕のできた肩にちょっと軽目の荷物ぐらいは背負えそうに思えるのだが。
 参照/「小笠原先生、ひとりで家で死ねますか」(朝日新聞出版)

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