「101年目の孤独」

成育医療研究センターをご存じだろうか。東京世田谷にある国立の小児科病院といった方がわかりいいかもしれない。胎児、新生児、小児などの難病に高度で先駆的な医療に取り組み、その治療モデルを確立して全国的な普及を図っている。初めて聞いたのは、次男に長女が生まれる時で、心臓が2個あるといわれて動転しながら診察を受けた。心房中核欠損というらしいが、自然とひとつが消えて事なきを得て、胸をなでおろした。命名の「にこ」はそこに由来している。
 さて、表題の「101年目の孤独」(岩波書店)は作家・高橋源一郎のルポルタージュ本である。高橋の次男も2歳の時に、急性脳炎で成育医療センターに担ぎ込まれ、「お子さんは大変重篤な状態です。これから治療を開始しますが、このまま亡くなる可能性が3分の1、助かったとして重度の障害が残る可能性が3分の1と考えてください」と宣告された。行く末を考える中で、財産などない現状でどんな生活になるのか、など愚かな思考を経て、作家の仕事などは他の誰かでも代替可能だが、次男を支えることは自分たち親にしかできない仕事ではないかに達し、それはむしろ喜ばしいものではないかと昇華した結論にいたる。妻にそのことを話すと呆れたように、私は医師の宣告から数分でたどり着いていたと蔑まされたという。
 なんか世俗的な評になってしまいそうだが、副題には「希望の場所を求めて」とある。訪ね歩いたのは、ダウン症の子供たちのアトリエ。身体障碍者だけの劇団。クラスも試験も宿題もない学校。イギリスの子どもホスピスなどで、そのルポは高橋の持っている独自の感性が息づいている。弱い人たちを訪ねる旅をしていたということになるがそれは正確ではない。老人も子供たちも障害者も、あるいは弱いといわれている人たちも、訪ねてみれば、弱くはなかった。むしろ「ふつう」の人たちの方がずっと「もろい」。私たちには弱い彼らが必要なのだ。「弱い人」をその中に包み込むことのできない共同体が一番「弱い」のだ。という結論でもあるのだが、心に染み入っていく語り口である。
実は弟が自閉症にかかっており、その世話や生活支援のために結婚をあきらめ、今もってその行く末を案じて安らぐ日を持っていない友人がいる。友人は古稀で、弟は65歳である。この友人にこの本を紹介しようと思っている。
 また、子どもの教育を考えて、ドイツに移住して本格的なシュタイナー教育で育てるという河内君に、正解であることをこの本を知らせて伝えたいと思っている。
 ところで「101年目の孤独」のタイトルはどうか。彼の文学評論で「ニッポンの小説―100年目の孤独」があるのだが、その続編ということでもないだろう。焼酎で「百年の孤独」というアルコール度数40度の銘品があるが、それにあやかっていると思っているが、まさかノーベル賞を受賞したガルシア・マルケスの長編小説「百年の孤独」ではあるまい。でもしばらくは高橋源一郎に注目して、いかねばなるまい。
 気がかりはやはり沖縄だ。米軍北部訓練場の年内返還を「歓迎」した沖縄県の翁長雄志知事の発言が波紋を広げている。返還は東村高江のヘリパッド建設を前提にしているのだから、それを容認したと政権は喧伝している。「オール沖縄」の足並みを崩す“くさび”とする狡猾なやり方であることは間違いない。「高江 森が泣いている」の上映会が22日に予定されている。どうしたもんじゃろなぁだが、狡猾の上をいく解決策を見つけ出さねばならない。

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