「東大助手物語」

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 。ご存じ夏目漱石「草枕」の一節だが、東大の研究室も同様住みにくさでは変わりがない。「東大助手物語」(新潮社)だが、昨年暮れに異様な書名なのでメモしていたがつい忘れており、富山県立図書館で見つけてそういえばと借りてきた。著者は中島義道だが、実在実名で、東大糟谷教授の研究室に助手として拾われ、帝京技術科学大学に助教授として転出するまでの教授からの執拗ないじめを描いている。もちろん糟谷教授なるものは谷嶋喬四郎という、これまた実在存命の東大名誉教授であることは自明になっている。余程のことであったのだろう、30年前のことを書かないでなるものかという筆致である。復讐ではないというが、大学とはどういうところか、学会とはどういうところか、そこで研究するとはどういうことか、虚なるものを剥ぎ取って、東大の陳腐さを見せてくれる。
 アカデミズムの通行証と称しているが、中島が助手なるポストを施しのようにありがたく頂戴し、滅私奉公で仕えて、助教授(準教授)のポストを教授の裁量で推薦してもらうという徒弟制度がまかり通っていたのである。恐らく今も変わらない、いやポストが激減している現状を見れば、それ以上かもしれない。
 ともあれ46年生まれという中島のキャリアを追ってみよう。現役で東大文一に合格するという病的な虚栄心に憑りつかれて、この男は東大一本に絞り込み、見事成就した。母は誰彼見境なしに「合格しました」と叫び出し、祖母は「ああやっぱり神童じゃったのう」と狂喜したという。「やっと東大に入った、と安心してはならないのです」と、この時の入学式で大河内一男総長は述べたが、それはこの男のためにいったのかもしれない。文一というのは法学部であるが、「自分が明日死ぬとしたら、いま何を学びたいか」を考えると法律ではなく哲学であるという結論に到達した。教養学部に転じ哲学を志すも大学院に進み、カントに関しての修士論文を書けずに退学。また変心して法学部に学士入学して、そこを卒業するも、再び哲学の修士課程に入学。ようやく修士論文を仕上げる。こうして、学士号2つと修士号1つを得るが、大学入学から12年が経っていた。その後、予備校の英語講師として就職するが、2年半にして講師としての人気の無さや自己の現状に絶望し、33歳でウィーン大学に私費留学する。やはりカントについての論文で哲学博士号を取得する。37歳で糟谷教授に拾われるように助手に採用された。そして、助教授のポストをチラつかせて執拗ないじめが始まる。糟谷教授がドイツへの長期出張に絡んで、自宅の芝刈り、空港への送迎が強要される。カネも渡そうと思い詰めたところで、学科長に内部告発して、ようやくに脱するという展開で、アカデミズムの確固たる通行証である助教授ポストを帝京技術科学大学で得る。
 中島の述懐である。こういう体験を経て生き延びていることは奇跡的である。あたかも厳しい戦闘で偶然生き延びた兵士のように、権力や組織の犠牲になって「斃れた」多くの優秀な頭脳に対して、中島は深く自責の念を覚える。なぜ潰されなかったのか?いまだ哲学研究者の端くれとしてぬけぬけと生きているのか?まったくわからない。だがこうした自責の念を生涯忘れてはならないこと、それこそが生きる勇気を与えてくれている。
 東大卒の東大研究室就職組の非正規雇用に似た現実である。知性もそうだが、品性も堕ちるとこまで堕ちているのかもしれない。リーダーになってはいけない人間というのは確かにいるのである。アベクンもそれにあたる。

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