授業が生徒を変える

小学6年の男の子を観察しながら、どんな風に育っていくのか、憂える時がある。夏休みでもあり、中学入試算数問題を一緒に取り組んだ。円の面積で、三つの同心円から真ん中の円部分を差し引いた面積を求めるもので、そのまま素直に計算していると10分以上要した。もっと簡単に求める方法があるのではないか、というところで、壁にぶつかってしまった。緊張感と集中力が続かない子と、能力や更なる興味を引き出す能力がこちらにない限界であるが、教育の難しさを思い知らされた。
 というわけで「学び合う教室・育ち合う学校~学びの共同体の改革~」(小学館)が新刊本コーナーで目に付いた。教育学の佐藤学が35年間学校訪問を続け、何とか教育に希望を見出そうとした記録である。35年前、佐藤が三重大学に赴任した矢先に起きた尾鷲中学校での校内暴力だがついに警察を導入しての卒業式となり、教育学者としての無力を思い知らされたことに始まる。その尾鷲中も、粘り強い校長と教師の努力によって変わった。一斉授業を廃止してグループの学び合いにして、教師たちが生徒の学びの可能性を信じて、教科書レベルよりもはるかに高い課題を設定して、創造的な授業を展開していったのである。地域の貧困はすぐに子供に反映していく。「荒れ」や「低学力」は貧困から発する不信、差別、排除の結果である。そうした困難をまるごと学校全体で引き受けることでしか解決はない。ひとりの子どももひとりにしないというグループ学習、ペア学習を推進し、教師も細やかな配慮、忍耐強さ、包容力、そして知性的な教育実践を継続していく。教師間の連帯感を確立させてこそ、その一歩が進められる。「授業が変える・教師が変わる・学校が変わる」という学びの共同体改革の根本思想である。
 教育改革で一番難しいのは小学校だという。学級担任制は厳しい。小学校教師ほど孤独な仕事はないというが、閉ざされた教室でどんな困難が生じても、誰も助けには来てはくれない。しかも教室内の出来事すべてにわたって教師が単独で責任を負わなければならない。「教育のハーレム」と呼ばれる所以である。学級担任から学年担任への改革が不可欠と指摘している。
 高校も深刻である。進学校の教室では多くの生徒が内職に精を出し、ほとんどの生徒がノートは取っているものの、消極的にしか授業に参加していない。授業に参加させている教師は大学教授に匹敵するだけの教科の教養を備えた教師であるという。他のどの国の生徒よりも「受け身」であることは間違いない。
学校改革は東京では特に難しいという。教師の授業での力量は低いのは、東京では地方出身者が教職に就くことが多いゆえに、同僚も保護者も知らない。その無名性が緊張を欠き、同僚性を築こうとしても、相互不干渉という都会性が阻んでしまうケースが多い。
 結論は45分の授業時間を教科書レベルの共有の学びに加えて、どんどん子どもの興味を引きつける質の高いジャンプの学びを用意することだ。佐藤学は最後につぶやく。授業改革は可能だと思っている人は達成できず、不可能だと認識しつくした人が達成できる。逆説的ともいえるが真理である。
 何よりも馬鹿げた教育現場への政治介入だけは許してはならない。学力テストもまったく意味がない。真正の学びをどう獲得するかである。教科書は「学び舎」に注目である。現職の教員や元教員が作った教科書会社を立ち上げた。
 8月30日久しぶりに戦争法案反対デモに参加した。富山駅前だが、清々しい気分である。国会議事堂前のデモも10万人を突破したという一報だが、何かが変わり始めている予感がする。!

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