「はじめてのマルクス」

何とか生き残っているな、と手にする週刊誌がある。「週刊金曜日」で、11月1日号が創刊20周年記念となっている。編集長後記によると、99年に発行した「買ってはいけない」が200万部売れてその貯金が効いているという。雑誌を発行し続けることの難しさは誰よりもといわないが、よくわかる。まして広告に頼らないとすればなおさらだ。そんなわけで、ささやかな支援になるかなと思って、同社発行の「はじめてのマルクス」を求めた。カネで命が奪われる!という資本主義の最強にして最凶のカネの物神性をもう一度問い直すのも悪くはないとの思ったのだが、手に負えなかった。
 師弟対談と銘打って、師は鎌倉孝夫・元埼玉大学教授で、マルクス経済学といえばまず名前が挙がる宇野弘蔵の高弟である。宇野弘蔵の「経済原論」はわが書棚にも積まれている。師弟の弟は佐藤優で、高校2年生の時に社青同(社会主義青年同盟)に加わり、その労働大学で鎌倉の謦咳に接している。「高校生ならば、どうして受験勉強をさせられなくてはならないか、自分が置かれている情況をできる限り客観的に知ることだ」「1万円札を刷るのにかかる原価は20円だ。それで1万円分の商品やサービスを買うことができるということを、おかしいと思うことが体系知によって経済現象を見ることだ」。そんな記憶を佐藤は語っている。77年の頃だというが、まだ左翼が最後の輝きを保っていた時代で、老人の後輩にあたる男は高岡高校時代にそんな勉強会に参加している。何とか千葉県庁にもぐりこみ定年を迎えているはずである。
 さて、労働力の商品化である。資本主義のもとでは労働者は雇われなければ生活できない。つまり、自分の労働力を売って、資本家の命令で働かねばならない。就活がその典型で、これがいつの間にか当たり前のことになってしまった。労働を通じての自己実現などあるわけがなく、例えばユニクロ柳井社長の飽くなき利益追求に翻弄されるだけである。封建社会から資本主義に移行する過程において、商人資本や高利貸し資本によって土地や生産手段が奪われて追い込まれる。
 老人の人生に当て嵌めてみよう。戦後まもなく闇商売で小銭を貯めて衣料品店を開く。自営業ゆえに何とか自分を売らずにやっていけた。しかし衣料品も市場が成熟化してくるとトーカマートとか共同でやっていこうとなり、そこに乗り遅れて廃業に追い込まれた。老人は衣料品店の後継を断念して賃労働者を選択するしかなかった。その商人同士のトーカマートも次なる市場成熟の波に抗することができず、巨大資本のショッピングセンターに止めを刺されてしまう。歴史の必然ということが実感できる。働くものの窮乏化、恐慌が必ず循環して起こらざるを得ないというのも、理論としてはよく理解できる。決して人間を幸せにするものではない。その利益のためなら環境をも破壊し尽くす資本主義はこれしかないという制度ではなく、特殊歴史的なものに過ぎない。歴史の必然は理想なるものに導くのかどうか。「人間は原罪から免れることができないので、人間の力によって理想的な社会を構築する試みは必ず挫折する」とクリスチャンの佐藤はのたまう。
 ともあれ労働力商品化からの脱却ということが可能なのかどうか、だ。大きな前提になるのが、職場の主人公はわれわれ労働者であるという意識だ。鎌倉孝夫は動労千葉を挙げている。国鉄民営化阻止の運動を粘り強く引き継ぎ、いま韓国鉄道の民営化にゼネストで立ち上がる同労組との連帯を主張している。列車を動かしているのはわれわれだ、という意識を共有して、国際的な連帯をも視野に入れているが生半可なものではない。
 労働力を売り渡していくしかないないのか、と若者に問われれば顔をゆがめるしかない。「最後のマルクス」としたり顔でいうには無責任に過ぎるし、老い過ぎて責任を取る時間も体力もないのである。
 晦日なのに、これという切り口もなく、老人の繰り言になってしまって申し訳ない。どうかよい年を迎えられんことを!

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