月刊「地平」創刊

 8月2日午後、ぶらりと紀伊国屋書店を回遊していたら、雑誌コーナーに平積みされている見慣れない月刊誌が目に入った。「地平」8月号。これがあの「地平」か、とピーンときた。創刊の7月号は2度刷り増しをしている。ご祝儀買いも当然入っている。創刊した熊谷伸一郎はむしろ業界用語でいう「3号雑誌」と呼び捨てられないよう浮かれてはいない。昨年末、このブログで綴った「持続する志」で、月刊「世界」のリニューアルにエールを送ったが、まさかその裏でこんな泥仕合があろうとは想像できなかった。期せずして、老舗伝統の「世界」に、新興の「地平」が切り込り込む構図である。やむを得ないが、不毛な競り合いにしてほしくない。

 世界の編集長を更迭された熊谷伸一郎は47歳にして退職金を投じて株式会社・地平社を立ち上げ、「地平」の創刊を決めた。2018年7月から22年9月までの編集長職では、3年連続で販売部数・定期購読部数を伸ばす実績を残している。そんな自負もあり、営業局への異動は承服できなかったのだろう。出版ユニオンに加入して団交の機会を持ったが、結論が出るわけではなかった。同僚4人が脱藩して行動を共にした。「コトバは無力ではない」と語る創刊の辞の熱い思いは、「地平」の隅々までその息吹を感じさせる。

 総合月刊誌のマーケットは極めて限定的であり、競合せざるを得ない。世界の現編集長・堀由貴子は手の内を知り尽くされたうえで、立ち向かわなければならない。より尖がった編集で違いを際立たせ、しかも寄稿者の奪い合いも想定される。友人のひとりは、この年齢で2冊は読みこなせないと早速、地平に切り換えた。書店の店長は、雑誌売り上げは激減しており、創刊がそのまま増収になればいいが、仕入れ返本の手間が増えるだけ、と表情を曇らせる。県立図書館の雑誌担当に聞くと、購入予算が決まっており、すぐには難しい。利用者からの要望が多ければの判断になる。資本主義の市場原理は厳しい判断を下すだろう。

 波風を好まない老人の思いだが、熊谷には営業局への異動を受け入れてほしかった。恐らく岩波の屋台骨が傾いていることは間違いない。膨大な知的資産をどう生かしていくのか。地平社を立ち上げる雑草魂で、岩波の再生に賭けてもらえたら、よみがえる可能性もあるのでは、と思う。朝日新聞もそうだが、インテリが新聞を作り、ヤクザが売るということを続けている。市場から発せられる小さなサインを見落とさず、市場の持つ創造力に訴え、大きく動かしていく営業のダイナミズムを今こそ見てみたい。

 出版界の栄枯盛衰は常なること。わが青春をリードしてくれた編集者をふたり挙げたい。ひとりは河出書房の坂本一亀。いわずと知れた亡き坂本龍一の父である。小田実の「何でも見てやろう」は文学より旅行記が君に向いている、この一言で決まった。高橋和巳の「非の器」も坂本の眼力が無ければ世に出ることは無かった。高橋の夭折を最後まで悲しんだ。もうひとりは原田奈翁雄。筑摩書房の「展望」編集長を務めたが、「人間として」は格好の人生の手引書となった。とりわけ林竹二を知り得たことはありがたかった。河出書房も筑摩書房も破産してしまうのだが、不器用なふたりはそれでも出版に拘り続ける。坂本は構想社を立ち上げ、原田は径書房を、とりわけ雑誌「ひとりから」は心温まる好企画であった。

 蛇足だが、径書房は原田の娘が代表をつとめ、「ちつのトリセツ」「人生最高のセックスは60歳からやってくる」を発刊している。7月6日に亡くなった原田は、どんな顔をしているだろう。

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