リア王

早稲田大学正門前にあった喫茶店「モンシェリ」。平屋に2階をかぶせて、そこを演劇小屋にしてやろうと喫茶店主がいい、その建設費214万円を演劇の革新を志す若者たちが半年で集めた。これが早稲田小劇場。1966年10月のこと。ここで10年間活動し、契約期限切れにより、76年富山県利賀村に拠を移したのである。そして今やモスクワ劇場、ニューヨークと海外で日本よりも多くの観客を動員する。

これを率いてきたのが鈴木忠志。39年清水市生まれ。中学3年の時から家族と離れひとり上京し、下宿生活を始める。58年早稲田に入学したというより、学生劇団「自由舞台」に入団した。この時はまだチェーホフが好きという程度。劇団員は100名前後、劇作家の別役実が同期生である。そこで演劇集団のあり方を学んだといっていい。ゴーリキーの「どん底」をやるといえば、お前は社会的歴史的背景を、俺はスタニスラフスキー(ロシア演劇論の先駆者)がどういう演出をしたかなどなど。俳優たちは、その人物の性格、社会的背景、生い立ち、家系、そして人物像の絵や、衣装も書いて提出する。それから討論、討論、討論である。ここで鍛えられる。

専用の劇場を得て、世に出る大きなきっかけを掴むことになる。鈴木は日比谷にあった東京新聞の梱包のアルバイトでしのぎ、他の仲間もほぼ同様の全員その日暮らし。行くところがないから、毎日夜になると集まってきて、ごろごろ寝たり、酒を飲んだり、もちろん稽古もするわけだが、そんな学生上がりの集団での無秩序。でもそれだからこそ、そこから発するそのエネルギーがものすごい。優等生インテリの別役はとても付き合いきれないと抜けていく。鈴木は演出だからそこに止まらざるを得ない。家賃を払い、食っていける、客がやってくる劇団にしなければならない。

さてどうしていくか。一筋縄でいく相手ではない。企画を出させる、それぞれのグループをつくる。民主的な討論ということも経なければならない。その混沌、混乱から何に収斂させていくか。演出家というより、むしろ経営手腕が試されるといっていい。そしてギリシャ悲劇,鶴屋南北に行き着き、白石加代子というスターを得る。ここがポイント。合わなくて出て行った者も。

はじめてこの演劇と出会ったのは「トロイアの女」。74年に岩波ホール演劇シリーズ第一回公演で、能の観世寿夫、新劇の市原悦子が共演している。高野悦子支配人は1年間の準備、3ヵ月間の練習。2ヵ月間の公演を課し、連日満員での1万人の動員となった。

白石加代子の演じる狂女を見た人は、その凄まじさに度肝を抜かれ、凄惨な悲劇を通しての人間のどうしようもない心の深淵をみることになる。稽古ぶりは本当に気違いになったのでは、と母親が思ったほど。夜中の3時4時にぱっとひらめいたからといって飛び起きてしぐさを繰り返す。1ヶ月も風呂にはいらず、鶴屋南北の気違い女が座敷牢から声を掛けるシーンをやる。身体への集中力を極限まで高めるのである。

スズキ・メソッドは呼吸と下半身の集中力を養う鈴木が独自に開発した手法。床を踏み抜けとばかり全身をたたきつけて足踏みをする。鉄の脚立を頭上に持ち上げて、後方にブリッジする。膝を曲げてのゴキブリ歩きをこれでもか、と。その間に“止まって長ぜりふをいえ!”“少しも動くな!”“どこまでも静かにいえ!”鈴木の怒声が鳴り響くという具合だ。情念、快楽、怠惰、やけ、危険で魅力的な言葉が並ぶ中で、つきぬける勇気を持って、身体を張っておどり出た時、鈴木の詩的な世界にたわむれ遊ぶことが出来る、というのは市原悦子。強さの演劇と評するのは別役。美空ひばりや、都はるみの演歌も飛び出すのである。マンネリは絶対に許さない、1回1回が真剣勝負。それが鈴木ワールド。

2月11日、富山県民会館で鈴木忠志の講演を聞いた後、「リア王」を見た。中学同窓のゴルフ会を、観劇会に切り替えた企画第1弾。5人が夫婦で参加してくれた。その後のジャズとワインもよかった。人生の黄昏で、同時代を生きたものがちょっと憩う。いいものである。

鈴木が講演で、浅利慶太をボロクソにいうのが微笑ましかった。この年齢にして、商業演劇何するものぞの気概なのである。しかし白石加代子が劇団を離れたので、もう「トロイアの女」も「バッコスの信女」も見れないのがなんとも残念だ。

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