日田市で見た「神の子たち」

「映画監督になれ、四ノ宮。自分が‘そうなるんだ’と信じ続けていれば、絶対になれるはずなんだから」と友に励まされ、「僕は映画を撮るために生まれてきた」と自分にいい聞かせ続けた。四ノ宮浩 28歳の時。1958年宮城県生まれ。母子家庭で祖父母と暮らす。仙台の予備校を経て日大へ。寺山修司が主宰する天井桟敷に入っていて、その公演日と大学の試験の日程が重なり、劇団を優先して中退。その後日活ポルノや企業PR映画、露天のアクセサリー売りで糊口をしのぐ。しかし、命をかけて撮るものが見つからないと悶々の日々。そんな時に「フィリピンに行ってみればいい。何か感じ
るはずだ」と勧めてくれたのがカメラマン。彼は成田空港のある芝山の生まれ。三里塚闘争の渦中に身を置き、少年行動隊の経験をもっている。右肩にかけたカメラを10分間撮影し続けても画面が揺れない。被写体に対した時の精神力は強靭そのもの。88年以降フィリピンで暮らしている。四ノ宮はそうした出会いから、運命の地フィリピンで、命をかけて撮るべき被写体を見つける。そこでフィリピン人の妻をめとり、3人の子供が生まれ、10年を超えてドキュメンタリーを撮り続けることになる。

天領日田をご存知だろうか。大分県日田市。2月16日小松から飛んだ。博多から西鉄の高速バスで1時間半。なだらかな山あいを縫うように走る。梅が咲き、菜の花の黄色が眼に飛び込んでくる。人口は6万人の小さな街。豊、肥、筑の各地から米、菜種、紙、たばこなどの物産が日田に集まり、中津から上方に運んだという。その富裕さを誇るような雛祭りが行なわれていた。その日田でフィリピンの貧困を突きつけられることになる。

自由の森大学。筑紫哲也さんが学長を務める市民大学だ。今年で9年目。その日が最終開講日で、ドキュメンタリー映画「神の子たち」上映とその映画監督・四ノ宮浩氏の講演が内容の2時間。

スモーキー・マウンテン。そのまま訳すと煙の山だが、フィリピンの首都マニラ北部に位置する巨大なごみ捨て場のこと。そこはアジア最大のスラム。3500家族、2万1000人が暮らすという。ごみ山の斜面に立ち並ぶ、数え切れないぐらいの汚い掘っ建て小屋。鼻をつく強烈な異臭。あたり一面に何千何万というハエ。空き瓶などの資源ごみをジャンクショップで換金して生計を立てている。そこに四ノ宮ひとりが移り住む。もちろんこの貧困と非衛生では死と隣り合わせ。そこにとんでもない災害が起きる。1週間降り続く雨がごみ山を崩壊させたのである。数百所帯が下敷きになり、数え切れない人が生き埋めになった。そこには何百という死体までが浮かび漂う。それでも瓜生はカメラを回し続けた。「カメラを回し続けるよりも、手を差しのべるべきでは」の論もあるが、目の前の現実を変えたら作品が成り立たない。そんな苦悩もスタッフを襲う。この災害でごみの搬入が止まった。当然住民の収入も途絶えることになる。2~3日何も食べられない家族。脱出を試みても、ここでしか生きていけないことを思い知らされるだけの厳しい現実。4ヶ月後再びごみの搬入が始まり、住民の日常が戻った、何事も無かったかのように。いつまた災害が襲うかもしれないがそこに居つくしか道がない。

四ノ宮はごみを拾う12歳の少女を主人公に据え、その子の笑顔を追う。やがてその子はそこの仲間の少年と結婚する。みんながそれを祝福し、子供も生まれる。スモーキー・マウンテンの子どもたちは、泥棒になることが嫌で、売春婦になることが嫌で、一生ごみを拾い続ける。それで1日3回食べることが出来ることを幸せと思っている。四ノ宮はこれでもかこれでもかと撮り続ける、いや問い続ける。人間とは何か、生きるとは何か。

終了後の懇親会。四ノ宮は、次ぎはニューヨークに行き、「グラウンド・ゼロ」(爆心地)を撮るという。「忘れられた子供たち~スカベンジャー」とこの2作でどれほどの苦労をしたか。その苦労をけろっと忘れての、この野心である。

さて今回の日田行きは、洗足短大閉校のあとに市民大学を立ちあげようという魚津のメンバーと出かけたもの。筑紫哲也氏にその学長を正式に依頼し、快諾を得た。3月17日に開講発表シンポジウム、6月15日開講というスケジュールだ。乞うご期待というところだ。

追記/[神の子たち]上映会情報 
3月17日午後3時 午後7時の2回。小杉町ラポール

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