国会議員・舩後靖彦

 ALS患者が国会議員になる。世界初でもあり、やはり衝撃だった。山本太郎は、その衝撃をどんな経緯で演出していったのか。れいわ新選組シンパとしては、何が何でも押さえておきたいところである。

 作家であり、れいわの強力サポーターでもある雨宮処凛が週刊金曜日(8月30日号)に、「人間の可能性に限界がないことを示す議員の誕生」と題して綴り、何と舩後靖彦の闘病記ともいうべき「しあわせの王様」(ロクリン社)が再刊され、書棚に並んでいた。求めよ、さらば与えられん、とはこのこと。早速紹介したい。

 このブログで、ALSの母を12年支えた川口有美子が著した「逝かない身体」を紹介したのは10年前。15分おきの痰の吸引、排せつは下腹部を押して肛門まで誘導して摘便する日々。ALSの地獄のような介護を初めて教えてくれたテキストだった。参院選が迫った6月、この川口と雨宮、山本太郎の3人が話す機会があった。何気なく川口が「5年前、松戸市議選に出たALSの人がいる」と口にすると、ピーンと来た山本が身を乗り出して、すぐに会おうと反応した。千葉の養護施設に出向き、人工呼吸器をつけてベッドに横たわる舩後に「国会で一緒に戦いませんか」と熱く語りかけた。無理だろうと思っていた2日後、介助者を通じてOKの返事が来た。雨宮はそれを聞いて、鳥肌が立ち、命がけで選挙に出る人がいる、これを全身全霊でサポートしなければと覚悟を決めた瞬間でもあった。雨宮は国会に連れ添っている。

 そして、闘病記は綴る。99年7月の休日、小5のひとり娘と腕相撲に興じていて、自分では本気でやろうとしても娘に勝てなかった。それからしばらくしての朝、歯ブラシが手からぽろりと落ちた。それが前兆であった。舩後は41歳で、酒田時計貿易の腕利きセールスとして、ダイヤの買い付けなどで稼ぎ頭として絶頂にあった時である。そこから転げ落ちるように00年3月、筋委縮性側索硬化症との告知を受ける。原因不明、治療法はなく、四肢麻痺となり、呼吸停止に陥り、平均3~4年で絶命します。質問はといわれて、呼吸停止で死ぬときは苦しいかと聞くと、意識朦朧として静かに息を引き取ります、という答えが返ってきた。呆然と声もなく、取り残されたようにベッドにうずくまる舩後に若い研修医が引き返してきて、「結論を急がないで、千葉東病院の今井尚志医師を訪ねてほしい」と涙目で進言してくれた。この今井医師が舩後を立ち直らせる。何とうれしいことに富山医科薬科大の1期生だ。今井は、ひょっとして回復できるのではないかという甘さを徹底的に打ち砕き、絶望の淵に追い詰め、従来の価値観では生きていけないことを叩き込む。怒りが生きる力となるのだ。加えて、こんな挑発も。娘の中学進学でカネもいるのだろう。そんな教育費を稼ぐのは父親の役目だぞ、稼いでみろ、とけしかける。敏腕セールスの負けじ魂に火が付き、重度障害者用意思伝達装置「伝の心」の習得をマスターし、ビジネス企画書で磨いた表現力で同病者を励ますピアサポート役で信用を勝ち得ていく。02年に胃ろうを付け、そして絶対に付けないといっていた呼吸器を装着する。母親の懇願もあったが、ピアサポートなどを通じて、人の役に立っているという生きがいが生き延びるという選択をさせた。

 さて、川口有美子もそうだが、ALSの母親の介護で離婚もし、追い詰められた中で、立命館大学大学院で独居者支援などを学び、家をリフォームし、ALS専門のケアサポートモモとNPO法人さくら会を立ち上げ、暮らし自立の道を探りだしている。舩後も出会った訪問看護ステーションの経営陣に加わり、強力な助っ人を演じ、講演、執筆活動もこなし、妻子を連れた海外講演も行っている。

 このふたりに限らないと思うが、窮地の中で、その専門性を磨き、自ら起業し、稼ぎ出していく。このしたたかさこそ、生きる源泉であろう。舩後の国会質問を「伝の心」の音声で、議事堂に響きわたる光景を早く見てみたい。

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