「情報生産者になる」

 11月3日東京で開いた大学同期会で、やり残した仕事があるので最終新幹線で帰るというひとりに、「うらやましいね」と声を挙げる数人がいた。この歳(73歳)になれば、仕事は自ら創り出すものだろう。まだ与えられ、物欲しそうに報酬ももらえるものだと思うから、ダメなんだ。そんな切り返しをして顰蹙を買ったが、古稀を過ぎてのライフワークなるものを考えてみた。

 「研究者という定年のない職業についてよかった」というのが社会学者の上野千鶴子。旺盛な研究意欲は、春画、満蒙開拓団の集団自決、認知症ケアと留まることを知らない。いつになったら老後がやってくるのか、嘆いている。最近刊行の「情報生産者になる」(ちくま新書)は、なるほどと考えさせる。高等教育の価値は、いかにして知識を生産するかというメタ知識を得ること。メタ知識は、たとえありものの知識がスクラップになっても、新たな知識を自ら生み出すことができる。予測も制御も不可能な世界で、どこでも、いつでも、生き抜いていける知恵を持つことにつながる。メタ知識という、目に見えない哲学としての洞察力を身に着けるために高等教育がある。定年で失業となってしまえば、せっかくの高等教育の機会を生かし切れなかった脱落者と烙印されても仕方がない。このレベルで話をしていても、運の良さや悪さを比べ合うくらいで、何ら前向きな気持ちにならない。捨て置いて、上野千鶴子の持論を続けてみよう。

 問いを立てる。この問いを立てられないと何にも始まらない。難しいのは、問いの解き方は教えることはできるが、問いの立て方は教えることができないこと。どんな問題意識を持って、現実に対する違和感、疑問、こだわりのようなものをキャッチする感性が不可欠で、生き方やセンスも問われる。その問いに対して、データを収集し、分析し、発見と課題を見いだし、解決のための仮説を創り出していく。研究者であれば、論文を書きだすことになる。40年近いサラリーマン生活で、そんな問いのひとつも持ち得ないとすれば、チコちゃんからぼうっと生きているんじゃないよ、と一喝されること間違いない。

 分かりやすくするために具体的に話したい。上野と同じく「在宅ひとり死」という問いを立てていて、こんな仮説で現実に取り組もうとしている。たまたま35歳の若者がブラック企業に退職届を突き付けた。車の運転も仕事の大事な部分だったが、10年間無事故無違反であった。加えて人当たりがいい。老人がパソコン工房で購入したものをすぐに使えるようにセットアップしてくれた。この若者を在宅医療の担い手にどうかと思っている。訪問先100件以上抱える在宅医療者に、運転と医療情報入力、訪問先との渉外を新たな仕事分野のスタッフとして、医師および看護師の作業軽減につながらないかという提案だ。在宅医療のニーズは高まっているが、24時間365日対応できる医師、看護師、介護士が明らかに不足している。人間らしい働き手の受け皿として実現可能ではないか、と思っている。いたずらに待っているだけでは、とても在宅ひとり死は無理である。試験的に導入し、十分可能となれば10人ぐらいの雇用も可能になるのでは、と思っている。これを業務受託できる企業を古稀世代が出資して起業すれば、いい循環になっていくという寸法である。

 情報消費者よりも情報生産者の方が面白い。まだ見ぬコンテンツを世に送り出し、それを公共財にしていく願い。古稀のライフワークということで、上野千鶴子ワールドで夢を見させてもらった。

 さて、名著・梅棹忠夫の「知的生産の技術」を引き継ぐとある「情報生産者になる」は刺激的かつ挑戦的である。ぜひ読んでほしい。

 

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