女たちよ、どこへ行く。

男はつらいよ、ではなく、女の方がその何倍もつらいに違いない。最近はそう断言できる。「女の自意識は、それ自体、病である」とする『新潮45』の女編集長は、中村うさぎにその病の正体を描き出すべく白羽の矢を立てた。中村は自意識過剰なところもあり、体当たりで切り込んだ。もちろん年齢も隠さない、58年生まれだから47歳。同志社大英文科を出て、広告代理店OLからコピーライターに転進する。その頃1年ほど結婚生活を体験している。同業の男で、よちよち歩きの中村からはあがめるような存在に見えた。すぐに張りぼてである事に気付き、女の矛盾した気持ちに悪戦苦闘し,ようやく離婚に漕ぎ着ける。その後の強さはやはり女。ジュニア小説『ゴクドーくん漫遊記』がベストセラーとなり、なんとなく作家業が確立する。しかしそれから始まったのである。ブランド品の買いまくりだ。つまらない男を確実に超えたのに、もっと認めてほしい、もっと私を見てよ、と。強烈な飢餓感が襲う。エルメスを何枚もまとってみる。満たされるはずもなく、5年間でほぼ1億円を買い漁った。
 彼女の作家信条はこうだ。自らの体験と肉体からしか説得できる言葉が生まれてこない。この本気こそ自分の身上だとする。買物依存症、ホスト狂い、整形手術による身体改造、遂にデリヘル嬢にまで挑戦し、まとめ上げた。もちろん饒舌である。実感がそのまま言葉となって皮膚から繰り出される感じだ。「女という病」(新潮社)「愚者の道」(角川書店)「私という病」(新潮社)と矢継ぎ早の出版である。書評をきっかけについ手にしてしまった。
 何が彼女を駆り立てるのか。欲張りなのである。社会的な役割と価値を持った私、家庭や友人関係での役割と価値を持った私、性的な役割と価値を持った私。このすべての私を満足させようというのだ。その半面で、女性性嫌悪、自己嫌悪がこびりついている。
 デリヘルへの挑戦は、東電OLへの共感である。もうひとりの私を探し出さずに、生きてはいけない。47歳にして、そんな思いである。中村典子が本名、中村うさぎがペンネーム、デリヘルの源氏名である叶恭子、この使い分けが行動を大胆にする。「叶さん、ご指名ですよ」と呼ばれて、新宿2丁目の個室に出向く。足がすくみ、恐怖が走る。それでもドアを開ける。そこには普通の男がいる。男の東電だ。仕事が自分よりできないのに何かと見下している。それなのに、悩まない、苦しまない人種で、のっぺり、鈍感で、実は気弱な男達だ。この落差に、女達は苛立つ。そんな思いが東電OLを衝き動かした。リベンジである。その男達が満たされない性的な幻想を求めて、<女である私>にひざまずく。濃い化粧をして別人のコスプレで街娼にすり替わっての、性的勝利感だ。ざまぁみろ!束の間、性的強者としての陶酔が彼女を狂わせた。そう推論する。
 さて、中村の驚くべき次なる展開だ。そんな男女の落差に挑むように、何と再婚する。相手はゲイの男性。「では、おセックスなどはどのようにされておるのですか?」の疑問に、「おセックスは外で、それぞれの相手とやりましょう」という決まりという。二人でいる孤独は、一人でいる孤独よりもはるかに辛い。最初の結婚で嫌というほど味わった。性的な独占契約でもある排他的な結婚を逆手にとっての、新しい形に挑戦したのである。結婚という性的な自由空間で、女友達のように、お母さんのように、私を理解し、私を赦し、私を受け容れてくれる夫だ、と悪びれない。
 そして女たちに訴える。東電OL、この私を見よ。我々は、あなたがたのグロテスクな鏡像だ。目を背けないで、これらのメッセージを受け止めてほしい。依存症からは何も生まれはしない。小さな体験から明るい大胆な哲学をみつける、自尊心の回復こそといっているように聞こえる。格差と不安が蔽いつくす現代社会にあって、ますます息苦しさが増している。しかし耳を澄ませば聞こえてくる。そんな人生でも生きてみなはれ!と。また、それなりに面白いものなのだ。安定、安穏な日常の裏側に、薄っぺらな幸福が持つ危うさだってある。いいとこばかりを掠め取っている薄汚さも透けて見える。ここは居直って、落在せるこの命楽しまんかな、の境地だと思う。
 置き去りにされた男達よ。お前達がだらしないから、こうまで女が苦しまなければならないんだ。これから10年くらいは、贖罪のつもりで女たちの捨て石になれ!ひたすら自己犠牲と奉仕に励むことだ。わかったか。

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