川柳事始め

「残高と余命を測る妻がいて」。これが褒められた最初の川柳である。俳句は高浜虚子の花鳥諷詠だが、川柳は人間風詠とされる。古稀過ぎてからは、とにかく誘われれば応じていく。「時事川柳が今なぜ脚光を浴びるのか」という講座を、6月から県民生涯学習カレッジで開くという谷澤裕平講師から連絡を受けて応じた。NHKの事件記者にレギュラー出演した元俳優であり、故郷富山に帰り広告代理店を立ち上げ、タウン誌も創刊するなど若き有能な人材の梁山泊でもあった。尊敬する先輩である。毎朝8時30分に時事川柳がネットで配信されてくる。これが10年以上続くのだから凄い。開講初日には、穿つ(うがつ)がキーワードで、スピード、センス、スタイルがポイントだと切り出し、挑発を受けた。そんなこともあり2回目に提出したのが冒頭の句。中学同期の友人から脳梗塞で車椅子となったが、最初に浮かんだのは残高が先に尽きるのではないかという不安で、余命との競争のようだという。そういいながら、茶目っ気たっぷりにあと何回の夕食かとうなぎも楽しむ。そんな葉書に感動して思い付いた。自分でもいい出来だと思う。谷澤講師からもらった時事川柳212号を眺めていると、「尖閣に立てて置きたい星条旗」(佐藤幸雄)が飛び込んできた。穿つの極意である。
 書棚に読まずに積まれていたのが、田辺聖子の「道頓堀の雨に別れて以来なり」(中公文庫)で、上中下3巻の大著。川柳作家・岸本水府を綴っている。2000年の刊行だが、古い大阪人は水府を川柳家の代表のように思い、水府の率いる川柳雑誌「番傘」を大阪の自慢としていたらしいふしがある、という書き出し。92年の生まれで、大正・昭和初期に活躍したのだが、同時に広告のコピーライライターの先駆けとして福助足袋、サントリー、グリコなどを担当、「一粒300メートル」で一躍脚光を浴びた。このコピー感覚はどうだ。「コドモハカゼノコ グリコノコ」「ツノダセヤリダセ グリコダセ」「グリコモラッテ タノシーケレ」。大阪人らしい秀逸の軽さである。
本業の川柳だが、「汚れてはゐるが自分の枕なり」「大阪にすむうれしさの絵看板」「ことさらに雪は女の髪へ来る」「旅でみる酒といふ字の憎からず」。田辺聖子はこんな秀句3000をちりばめて、水府を通して近代川柳史を綴った。底流にながれるのは川柳コンプレックスである。俳句でさえ、老人や病人の余技であり消閑の具だとする桑原武夫の第二芸術論で蔑まれたのだから、川柳などは雑俳と軽視されたのは当然で、水府の生涯もこの社会的な偏見と格闘せざるを得なかった。川柳第四運動といって、ふざけた柳号の廃止、川柳の懸賞の廃止などの運動を進めているが、思うに任せなかった。聖子が筆を措くに際して吟じている。「太陽も孤独の王よ 水府また」。
 川柳といえば、忘れてならないのが石川県出身の鶴彬(つる・あきら)だろう。「手と足をもいだ丸太にしてかえし」。日中戦争のさ中にこんな反戦川柳を詠んだ。当然特高警察に捕らえられ、収監中に亡くなった。プロレタリア川柳を唱導し、川柳界の小林多喜二と呼ばれる。水府の系に属するが時実新子も忘れ難い。
 はてさて、川柳がもてはやされる時代とは、ひょっとして江戸時代に戻っているのか。成長しない社会の楽しみとしての狂歌だ。貧乏も、不幸も、凶事までもネタにして笑いに変えてしまう。太田南畝の天明狂歌の時代が再来するのもいいかもしれない。北のミサイルで右往左往するより確実にいい。

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