荒地の恋

「あなた、わたしを生きなかったわね」。「そう、俺は君を生きなかった。だから罰は惨(むご)い方がいい。君を生き直すことはもうできないのだから。俺は君を捨てたのだから」。詩人は、このフレーズのために身の破滅も辞さなかった。なぜか、そう読んでしまった。破滅の果てに引き受けたのが多発性骨髄腫。末期の痛みは大の男が絶叫するほどに凄まじいものだという。全身の骨という骨の髄を抜き取って熱く溶けた鉛を流し込まれるような痛みだとも。その痛みを経なければ死ぬということすらできない。「何という罰、何という幸福!」。
 作家であり、詩人でもある、ねじめ正一の「荒地の恋」(文藝春秋刊)だ。戦後詩の荒地グループの北村太郎の踏み外していく生、それは性でもあるのだが、追っている。すべて実名の登場なので、あの田村隆一が、鮎川信夫が、「求めない」の加島祥造が、こんな男だったのかと腑に落ちる。足掛け7年かけてのモデル小説、ねじめは新境地を切り拓いた。
 さて、北村太郎だ。本名・松村文雄。22年生まれ、東大仏文科を出て朝日新聞社校閲部に勤務していた。校閲部と聞いて、とても懐かしい。新人は1~2年教育を兼ねて経験させられる。新人以外は、主流を外れたり、定年間際であったりと、いわば吹き溜まりといったところ。もちろん生き字引みたいな人もいて支えているのだが、功名を争うこともなく、居心地はすこぶるいい。やはりというべきか、北村はこの境遇では詩を書いていない。妻と子を水難事故で亡くした後、教師をしていた治子と再婚し、二人の子を得て、穏やかな日々であった。あまりの寡作に「たった、これだけか」と蔑まれる始末である。
 踏み外しは、高校時代からの親友・田村の4度目の妻、明子に恋することから始まった。北村53歳である。田村にはいつも女がまとわりついた。殺し文句である。田村の詩も、田村という人間も、もしかしたら田村という人生も、殺し文句で出来上がっている。そしてまた、殺し文句の詩人は女を殺すだけで愛さないのだった。言葉で女を殺して、うまいこと利用して、面倒臭くなったら逃げ出すのだ。殺し文句の詩人が大切にしているのは言葉だけである。言葉に較べたら、自分すらどうでもいいのである。
 この時も編集者の若い女性がまとわりついた。そんなこともあり、明子の方から積極的だった。46歳の体は痩せているのにやわらかかった。これを北村は妻・治子に語るのである。治子は神経症となる、まるで“死の棘”を地でいくようだ。そして明子も、したたかなエキセントリックな性格で、料理掃除も手早く、田村と北村を操るように見えたが、うつ病が高じて自殺未遂へと追い詰められていく。
 加島祥造と鮎川信夫も、最所フミを巡ってある。最所は、津田塾を出て留学経験もし、当戦後日本でもっとも有名な女性の英米言語研究者であった。この最所は、15歳も年上ながら加島と同棲していた。しかし加島はフルブライト留学生として、留学する。その間に何があったのか、誰も知らない間に、鮎川は最所と結婚していた。周囲は、鮎川はてっきり独身主義と思い込み、急死の葬儀で、鮎川の棺に額づく最所を見て、初めて気がつく始末であった。隠し妻の完全犯罪といっていい。
 北村は最後に、若い恋人・阿子を得る。詩の朗読会に参加したフアンだという看護婦だ。殺し文句の手紙攻勢で、彼女を射止める。浅草を案内したのが最初のデート。次に阿子はアパートを訪ねる。手製の親子どんぶりで遇し、それから当然のように性交をおこなった。甘える北村は、告知を受けた後にもその骨髄腫をベッドの話題としている。踏み外しが、北村に多くの詩言葉をもたらした。92年の死亡記事は「腎不全のため虎の門病院にて死去。享年69歳。故人の遺志により親族・知己のみにて密葬」。
 彼らはもう語らない。生活とは、夫婦とは何なのか、大きな疑問だけを、その生き様で残していった。とりわけ「私を生きて」という女の、妻の生き方が哀しく迫ってくる。女達よ、詩人なる人種に惑わされるな!
 最後に、これらの詩人達はミステリーの英文翻訳作業で糊口をしのいでいることだ。荒地の由来がエリオットの詩集にあるように、戦後詩を理解する上で、重要なポイントといえる。

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