ベーシックインカム

「それは社会主義国家ということですね」。70歳を過ぎている人から、そんな風にいわれて驚いた。消費税を付加価値税にして税率20%超、それを財源にしてベーシックインカム制度を導入する。老若男女、貧富を問わず、生まれたての赤ん坊までひとり残らず月6万円程度を支給する。このくらいの大胆な政策転換を図らないと、追い詰められている貧困者の回復は望めないのでないか、という主張への反論であった。働かない若者が増えますよ、勤労を尊ぶといった気風が消えます。3Kと呼ばれる職場には誰も行きません。教育で人は変わるというが、人間の本質は変わるわけがありません、と続く。保守岩盤の堅牢さだ。この老人のように、家族のため、企業のため身を粉にして、不平もいわず、黙々と働いてきた人には特にこの傾向が強い。自らの体験が裏打ちともなっている。加えて、ソ連崩壊も社会主義のイメージを極端に悪くしている。
 失われた10年から更に10年。刻苦精励しても得られるものは何もないということを、若者達は日々仕事の現場で実感し続けている。厚生省が初めて公表した貧困率15.7%は、OECD30ヵ国中26番目、平均10.6%を大きく下回る。確実に“下り坂”を転ばないように歩いているのだ。消費による内需拡大をどんなに目論んでみても、無駄のようだ。はてさて、どうなる、どうするのだ、と悩みは尽きないが、どんな状況になろうとも、人間を壊してはならないということだ。
 ベーシックインカムという劇薬に近い制度を挙げたのも、我らが悩める課題の問題点を明らかにしてくれるからだ。例えば、年金・雇用保険・生活保護など幾重にも張り巡らされているものを整理、単純化でき、行政コストも格段に安く付く利点は大きい。また、最低限の生活保障があるから、企業も雇用調整を簡単におこなえるようになり、労働者も自由に職業を選べるようになる。
 グローバルな競争社会から避けて通れないというのは、もう自明のことである。新興国の成長を、成熟した日本社会がどう取り込んでいくか。経済だけでなく、安全保障を含む外交、政治、社会、文化などなどで、複雑な方程式となるが、人間が、というより個々人が生まれてきてよかったという解答に行き着かなければ意味がない。
 そこで紹介したい。この欄413「朝の靴音」で紹介した映画監督・森達也がノルウェーに飛んでいる。彼の問題意識には、いつも「北風か、太陽か」がある。9.11以降アメリカを始めとして、すべて厳罰化の方向に進んでいる。刑務所への過剰収容は定員をはるかに超えて、受刑者の更正や矯正などにはとても手が回らない。当然再犯、再々犯が増えてくる。脅える市民は、更なる厳罰を求めるようになり、際限のない負のスパイラルに陥ろうとしている。その彼が、北風ではなく、太陽を選択したノルウェーの刑務所を訪問したのである。
 オスロの街には監視カメラがどこにも設置されていない。特別警戒実施中という看板はどこにも見当たらず、警察官もほとんど見かけない。犯罪学者を取材するために訪れたオスロ大学では女子トイレを利用する羽目におちいるが、そこで運悪く出会わせた女性教員はちょっと驚いた表情を見せたが、すぐに自然な笑顔を見せてくれたという。さて刑務所だが、まるでサロンのようだ。服装も髪型も自由なので囚人と職員の区別がつかない。何と鉄板焼きを食べる囚人にナイフの使用も自由で、公衆電話も設置され、恋人や家族に連絡を取っている。何よりも撮影が自由なのだ。
 人間は恐怖する動物である。恐怖を、方程式の変数に大きく入り込ませるのは、21世紀の文明社会においてどうなのか。まして、貧困への恐怖が働く動機だという競争社会の薄っぺらさで、このグローバルな競争を乗り切っていけるのか。老人党は考え続けたい。
 「今年はと思うことなきにしもあらず」(子規)。医療法人の開業に向けて、認可のための書類作成に忙殺された年末年始であった。そして亡妻の命日も、忘れてしまっていたのである。
 参照/紀伊國屋書店「スクリプタ」14号

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