鯨飲馬食

食欲というのも年とともに衰えていく。生活習慣病とかと、いわれにない数値にも惑わされ、更に減速する。いま一度腹いっぱい食ってみたいと思っていたところに「開高健が喰った!」(実業の日本社)が飛び込んできた。とにかく喰っている。
 アラスカ・ベーリング海峡で自ら釣り上げたオヒョウは約170cm、60キロの大物。「これを活け造りで食べよう」と民家のドアをまな板にしてさばき、怒涛渦巻く海を背に口の中に放り込んでいる。ブラジル・ブラジリアの草原では何と電柱を串に、牛を丸ごと焼いている。とにかく豪快、痛快な食べっぷりだ。取材とはいえ、釣(ちょう)行(こう)にプロの料理人を同行した。大阪あべの辻調理師専門学校の辻静雄に、忍耐力と想像力に富み、どんな食材でも料(りょう)ることのできる料理人を頼んでいる。選ばれた日本料理の谷口博之教授は、釣り上げた魚だけでは、この食の探求者を満足させられないので、現地に着くやいなやマーケットに向かい、ダンボールに何箱分もの食材を買い込む。もちろん、鉄製の鍋や釜など重たい料理道具も山ほど持参する。「教授、盛大にやってくれ」。注文はこのひと言だった。
 開高健は1930年大阪生まれ。中学入学時に父が腸チフスで急死、以後10年間は学業を片手間に、夜はパン焼き見習いや鋳物の旋盤工などをやって一家を支えた。大阪市立大学に入学し、同人誌「えんぴつ」で文学修業に踏み出す。というのも中学時代に疎開する人たちが捨てた荷の中にある雑誌、全集などを手当たり次第に読み漁っていた。文学への憧憬はその頃に宿していた。詩人で7歳年上の牧洋子と結婚したのが大学3年。母親とひと悶着あったが「生活費は仕送りする」と宣言して、牧のもとに転がり込んだ。まもなく長女道子が生まれている。そんな生活の苦境を救ったのが寿屋(現サントリー)の佐治敬三。牧は寿屋の研究課に勤務していたが、佐治は彼女と交代させる形で、開高を宣伝部に採用した。大阪人らしい解決策である。そして、稀代の名コピーライターの誕生となった。「人間」らしく やりたいナ トリスを飲んで 「人間」らしく やりたいナ 「人間」なんだからナ。柳原良平のイラストとの組み合わせで一世を風靡した。また、宣伝誌「洋酒天国」の編集長も勤め、巷では“夜の岩波文庫”と呼ばれた。
 そんな多忙の中でも文学への志を捨てなかった。書き上げた「裸の王様」が、大江健三郎の「死者の奢(おご)り」を抑えて第38回芥川賞を受賞した。28歳の時である。この受賞を機に寿屋を退社するが、以後も嘱託となって寿屋の広告を作り続けた。しかし、開高の評価を確立させたのは、ベトナム従軍取材である。自ら望んで朝日新聞社の臨時特派員となり戦火のベトナムへと旅たった。65年、最前線の取材でゲリラに襲われ、総勢200名のうち、開高を含め17名しか生き残れなかった。その苛烈な体験を基にしたのが「輝ける闇」(新潮社)。書架から取り出してみると、68年5月11日清明堂にて購入となっている。定価530円。記憶がよみがえってきた。この小説の冒頭に出てくるバーボン《ジャックダニエル》を飲みに、富山桜木町のバー仏蘭西屋へ粋がって通ったのである、身の程もわきまえずに。いま人気の直木賞作家・角田光代が開高健に傾倒しているという。違うタイプだが、文章リズムが妙に合っているらしい。
 その開高も、食道がんに肺炎を併発して、58歳で逝ってしまった。鯨のように飲み、馬のように食べた食道が皮肉にもがん細胞に侵されたのである。彼の口癖が「悠々として急げ」。迫真の大釣行をまとめた「オーパ!」の中で紹介しているのが中国のことわざ「1時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。3日間、幸せになりたかったら、結婚をしなさい。永遠に幸せでいたかったら釣を覚えなさい」。
 そして思い起こすのが、佐治敬三が茶目っ気たっぷりに、パーティ会場で並ぶビールのうち、サントリーだけを選りだして栓を抜いている姿である。
参照・「サライ」05年5月5日号。

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