「日本人はどう住まうべきか?」

 わが家の床の凹みが気になってきた。食堂が最もひどく、廊下も数か所、踏み込むと凹んでしまう。数年後には踏み抜けてしまうのでは、と危うんでいる。とにかく築40年になろうとしているのだ。考えてみると、38歳で住宅ローンを組んで、払い終わったら床が凹んでいる住宅劣化。年間100万円以上が住宅取得、その維持に費やすことになっている。住宅を公助と考えず、自助として全く問題なしとする政府と、これを容認してきた国民の責任を問いたい。といいたいが、何とも虚しい。ほぼ40年での使い捨て住宅だが、これも20世紀アメリカ社会が生んだ消費文化ともいえる。高度成長期にわが世代の多くが洗脳されて、疑うこともなかった。200世帯余の団地であるわが町内も、この現実に否応なく向き合わされ、悩んでいる。さりとて、すべて私有を禁じられ、公営住宅に義務付けされるのも、御免こうむりたい。

 ひょんなことから「日本人はどう住まうべきか?」が面白いと聞いた。新潮文庫で460円と安い。紀伊国屋富山店で、店員に探してもらって手に入れた。「負ける建築」(岩波書店)を著し、今を時めく建築家・研吾研と、解剖学者で「バカの壁」を著した養老孟司の掛け合いだが、実に面白く、ストンと胸に落ちる。結論をいってしまうと、「だましだまし」住んで、「だましだまし」生きるということ。どこでだって、どうでも住める。水害でも、地震でも、気を取り直せば、生き延びていけるようにするのだ。

 ふたりに共通するのは、鎌倉にある栄光学園中学・高校の男子校先輩後輩であること。イエズス会というカトリック系の修道会が運営しているのだが、ルターが主導した頭でっかちで観念的な宗教改革に反して、いわば現場現実主義で、そこで戦える肉体も鍛えようと宗旨。栄光学園では「お前たちは運動が不足しているから、余計な妄想にとらわれる」と、真冬でも上半身裸で校庭を走らされる。ザビエルが選択の余地なく命じられ、ひとり遠い日本に来て、日本という現場で布教に命掛けて飛び込んだ。このポジティブな現場主義がふたりに通底する。

 例えば、大きな災害に出会った時人間の対応は極端に二分される。ひとつはユートピア主義で、もうひとつは現場主義。ユートピア派は、どんな災害が来ても耐え得るような理想都市、建築を作ろうという。一方現場主義派は、災害の圧倒的なパワーに圧倒され、とても人間のか弱い力では対応できないと観念するが、それでも自分たちでできることはないか、と必死に探る。この分類でいくと、郊外の住宅は緑の芝生に白い理想の箱を模して、汚く危ない都市の現実から逃れて、夢の人生が手に入れられるというインスタントな個人ユートピアといっていい。それが大災害に加えて、住宅ローンが組めなくなった構造不況が、ユートピアなる妄想を打ち砕いてしまった。

「だましだまし」が解決策といっているが、現場主義はさらに「ともだおれ」という関係を持ち込めという。誰が責任を取るわけでもない大量生産型から、現場に立って、歩き回って施主に寄り添い、次世代まで責任を負う棟梁が作る住宅が理想だ。いわば、住宅のかかりつけ医。この床の凹みは想定していたから、こう直しますというもの。わが友人にひとりだけおり、期待している。

 突き詰めないで、融通無碍、だましだまし。そう自分にいい聞かせることだ。

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