11月30日NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」はわが新湊への訪問であった。江口洋介がゲスト役を務めているのだから、新湊が舞台の来春ロードショー「人生の約束」の前宣伝も兼ねているのだろう。それにしても人のいない町になったものである。
その前日、新聞の訃報記事で同期生・池田勝機が亡くなったことを知り、新湊を思い起こしていた。彼とは引揚者住宅の一角にあった託児所で一緒だった。卒所式の写真ではみんな白い名札を胸に付けておさまっている。とにかくみんな等しく貧しかった。妙に記憶に残っているのが、新湊小学校6年1組の級長をしていた池田が描いた工場の絵である。庄川河口の西岸から、川を挟んで日本鋼管富山製鉄所を画面いっぱいに煙突から噴き出す噴煙とともに実に力強く描かれていた。その写生画の影響なのだろうか、彼は中学を出ると日本鋼管養成工訓練所に入り、そこで定年まで勤めあげた。級長までやった地頭の良さと統率力は組合活動でも発揮されて、組合委員長をやっている。鉄鋼労連の傘下であり、合理化対応の矢面に立っていたはずである。60歳を前にした時期に飲む機会が数度あり、その数度目かに大喧嘩をしてしまった。酒の勢いもあったのだろうが、賃上げが生産性の範囲内だとするおこぼれ論に加担してどうなるのか、と吹っ掛けた。同席していた仲間のとりなしでその席はなんとかなったが、ほろ苦さをひきずっている。書生論の青さを苦労人にぶつける品性、知性の無さに自己嫌悪が澱のようにこびりついたのである。賀状のやりとりでは、今度一杯やろうと書き添えていたが実現することはなかった。訃報を聞いて、その苦い思い出がよみがえってきた。
労働組合が民主主義の学校と呼ばれた時代でもあった。職場討議を積み上げ、個別企業や産業別の置かれた状況、政治状況も話し合い、要求にまとめあげ、団交に臨む。スト権投票を呼び掛ける職場オルグは青年労働者を鍛えあげた。文化活動も活発に行われており、池田もそんな空気のなかで、良き時代を生き抜いてきたのかと思うと感慨深い。
でも、このことは記憶にとどめておこう。日本鋼管富山製鉄所、現在はJFEマテリアルだがその歴史である。1917年(大正6年)電気炉による低燐銑鉄製造を目的に創業された。浅野総一郎の尽力であろう。新湊の東部に立地する日本高周波鋼業富山工場と並んで、東の鋼管、西の高周波と呼ばれ、新湊の雇用を支えた。あそこだったら、嫁にやっても大丈夫という風であった。両社ともフェロアロイといって、合金鉄とも呼ばれるが、鉄に別の金属を加え、強度、靱性、耐熱性、耐食性を強化するもので、戦前戦後を通じて富山の主要な産業であった。 日本電工、日本重化学、太平洋金属などが挙げられる。今では過剰な電気を消費する産業となって、主に中国やブラジルが主力となっている。
そんな中流世帯に支えられて、「家族に乾杯」で出てきたオランダ焼・魚間菓子舗周辺の新湊の繁華街・立町が昭和30年代隆盛を極めた。川辺書店、衣料品の清水屋、映画の日吉館、中川餅店、レコードの松野楽器店、そして立川志の輔の実家というべき竹内商店、筆者の実家である婦人商会などなどだが懐かしい。
そして思う。もう一度消滅寸前の地方をよみがえらせようとすれば、新湊大橋の総事業費494億円を教育費に投入すべきではなかったか。あの池田が30歳前後で家族が生活できる奨学金を得て、大学へいくのである。フェロアロイを学び直し、海外留学も経験させていたらブレークスルーする技術を開発していたかもしれない。地方に顕著な貧困の連鎖を断ち切るために、北欧同様に大学の授業料を無料化すべきである。地方再生は教育再生でなければならない。
フェロアロイ