「営業っていうのは、ゼロから仕事をつくるものなんだから」。あふれる新書コーナーで、戸惑いながらやはり手にしていた。もう現役ではないのだから、やり過ごしていいだろうと思いつつ、まだうずうずしてくるものが残っているらしく、ぱらぱらとめくりだしていた。「電通とリクルート」(新潮新書)。著者は博報堂をスピンアウトした山本直人。冒頭のセリフは、たまたまめくったページから飛び込んできた。リクルートの人間が、電通、博報堂とかの代理店の営業は営業じゃないよ、と見下げたセリフに続くもので、これは読むに値すると判断した。
電通は広告を通じてマスコミに君臨し、いわば既得権という“元栓のうまみ”を享受し続けてきた。一方リクルートは60年に江副浩正が徒手空拳、アイデアひとつで創業したベンチャーだ。いわばメディアを含めていつもゼロから出発するしかなかった。住宅情報、転職の「とらばーゆ」、アルバイトの「フロム・エー」では中小、零細企業を相手にするしかない。これを持ち前のバイタリティで毛細血管から酸素を運ぶように営業を展開してきた。“毛細管のすごさ”というのは絶妙にいい当てている。農耕的と狩猟的、発散志向と収束志向と企業体質、活動領域は異なるが、ともに企業の情報発信を支援するという意味では共通点がある。高度成長、バブル期とお互い成長をほしいままにしてきた。
しかし、失われた20年はこの両社にも例外なく大きな試練を与えている。方向性を見失い、のたうちまわっているといっていいのかもしれない。電通得意のマスコミ4媒体の広告費はピークの7割以下となり、リクルート得意の人材採用領域は5割以下という状況に陥っている。
それぞれに消費で、人生の選択で夢を売り続けてきた。「いつかはクラウン」という時も、「とらばーゆして、キャリアアップ」という時もあった。それがどうだ。まったくの幻想じゃないのか、と誰しも気付くようになったのだ。09年電通は「幸福の方程式」、博報堂は「幸福の新しいものさし」を出版した。車や家を持つことも、ブランド品やグルメに興ずることももはや幸福とはなりえないことを知ってしまった今、新しい幸福の物語が始まっている!とのたまっている。持てる者同士の幸福論かよ、持たざるものはらち外かよ、いい加減にしろ、と怒鳴りたくなる。もう騙されないという覚めた大衆に語りかける言葉を失っているのだ。そこにインターネットが追い討ちをかけている。一塊だった大衆像が消えて、所得格差、意識格差に分断された階層消費時代という構造変化だ。加えて新規参入にそれほどのハードルがなくなれば、元栓のうまみ、毛細のすごさも特質ではなくなり、どんな企業もそれなりに身につけれるようになる。
起死回生になるかと思われた、両者が共同で設立して発行した「R25」「L25」も当初の輝きを失っている。「情報は未来を約束しない」。こんなシンプルな真実が提示される。他人に自分のストーリーを描いてくれ、という時代は終焉した。情報との付き合い方を自ら発見しなければならない時代なのだ。それでもこの両社がどう切り抜けるのか見届けねばならない。
これはもしだが、65歳の老人が就活するとしたら、やはりリクルートの門を叩きたい。お先真っ暗に見えるマーケットに、小さなランプを掲げながら潜り込んで、何とか活路を見出していきたい。伝説の創刊男くらたまなぶに負けたくはないのだ。恥ずかしながら、そんな野心がまだ残っているらしい。困ったものだ。
老人らしくない初夢で、新しい年を迎えることになった。代わり映えがしないので甚だ申し訳ない。「昨日の我に飽きたり」を座右としてきたが、返上しなければならない。というわけで、荒野にひとり立つ、そんな覚悟で立ち向かおう。
「電通とリクルート」