「笑う子規」

洒脱な発想と切り換えのよさ。畏敬する天野祐吉が、松山の出身で、子規記念博物館の館長だとは知らなかった。広告批評、朝日のCM天気図を愛読しているが、俳句にも独特の味わい方をみせている。この天野に南伸坊の絵が加わり、見事に脱線している新編・子規句集が出来上がった。「笑う子規」(筑摩書房 1600円)。生気あふれる子規のおかしみが躍っている。脊椎カリエスの凄まじい痛みにさいなまれながらも、病牀六尺の中に限りない精神の自由が存することを見せつけているのだ。
 「人間を笑うが如し年の暮れ」。わははははははは、馬鹿だね、人間てやつは。あははははははは。そうですね、あなたもわたしも、わははははははは、あははははははは。この解説部分が天野の筆だが、南と掛け合いながらの情景が見えるようだ。俳句で遊ぶというのは、こんなことを指す。子規だって笑って許してくれるんじゃないか、と心底思っているようだ。
 「桃太郎は桃 金太郎は何からぞ」。金太郎は飴からに生まれたに決まっとるじゃろ。「めでたさも一茶位(くらい)や雑煮餅」。一茶はうまいね。めでたさも中くらいなりおらが春、なんて。ことしの正月は、そのもじりでお茶を濁すか。「弘法は何と書きしぞ筆始」。書き初めか。弘法は何と書いたんだろうな。初日の出?ばかな。初目の出?なんだ、そりゃ。弘法も筆の誤り?正月早々、馬鹿言ってんじゃないよ。「睾丸の大きな人の昼寝かな」。なぜか度胸のすわった男のアレが大きいと思われている。が、もちろんアレの大小と人間の大小はまったく関係がない。それにしても、褌からハミだしているあの人のアレはおおきいなあ。
 という具合だが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で描いた秋山兄弟を詠った句で、「えらい人になったそうなと夕涼」。秋山さんとこの兄弟は、えらいご出世じゃそうな。それにくらべて、正岡のノボさんは相変らずサエんなあ。
 34歳で人生を終えた子規だが、79歳の天野祐吉、64歳の南伸坊が早逝の子規句でおどけ、たわむれ、からかっている。知性、品性とも秀逸な漫才といっていいかもしれない。子規博の建物に垂れ幕で、手書きの句を掲げたのが始まりで、筑摩書房の金井ゆり子が本のイメージをつかみ、出版に漕ぎ着けたようだが、いいセンスである。
 はてさて、忘年会続きで機能していない頭脳に、新聞の活字がうつろに通り過ぎていく。
 ひとつは原発だ。ほんとうに被災者に向き合っているのだろうか。首相の原発事故の収束宣言もそうだが、除染に予算を惜しまないとはどういうことか。まるで放射能が消えてなくなるように聞こえるが、行き場のない汚染水、汚染汚泥が溜まるだけだろう。まして山林まで除染するというが全く不可能であり、これこそ汚染の拡大につながるだけではないのか。「除染」ではなく「移染」とすべきだとの意見もあるが、その通りである。除染というあいまいな言葉は使うべきではない。莫大な費用を掛けて、移染された土地に人が戻れる保証どころか、見通しさえ怪しい限りだ。被災地に向けたポーズであるとすれば、これほど大きな罪はない。
 もうひとつは普天間だ。誰が考えても移設見通しが立つわけがないのに、これでもかこれでもかと政府高官が沖縄詣をしているのはどういうことか。アメリカへのポーズであるとすれば、国民を欺く行為である。そんな出張予算こそ仕分けされて然るべきだ。それから社会保障と税の一体改革も、国民を見ていない。
 これではますます酒に依存し、脳機能不全になるしかないではないか。かといって橋下待望論には絶対くみしない。

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