「売る力ノート」

前回の就活ということから、牧歌的だった頃のエピソードを思い出した。その頃は青田買いなどといい、新人採用こそ企業成長の源泉と思われ、血眼になって学生争奪戦を演じていた。野村證券でも思うように人材が集らなかった。わが大学同期で、抜け目のない男が同社の人事部長であった時の話だから、35年前ということになる。
 東京大学卓球部のキャップテンを務める学生が、全国大会を東大の主幹事で開くので、プログラムの広告依頼に野村證券を訪れた。お願いします、と頭を下げる学生に「プログラム全体の広告は全部でいくら必要なのか」と人事部長が聞く。「まあ、目標は100万円です」と応えると、即座に「君が野村に入るのならば、その広告全額を負担してもいいがどうだ」と気合い鋭く迫ったのである。こんな浪花節が効を奏して、この学生は野村證券を選んでしまった。
 この学生が入社して10余年後、富山支店長として赴任してきた。「おい、富山にこんな男を送り込んだからよろしく頼む」という同期から連絡が入り、早速と好奇心丸出しで顔を見に出かけた。そして同期が法人部長となり、殺人的なスケジュールを縫って富山にやってきた時である。「さあ、3人で飲もう」ということになったのだが、すさまじい酒席となった。ウィスキーのがぶ飲みである。あっという間に1本が空き、次の1本という具合だ。法人部長は翌朝5時に起き、相場を確認した上で、富山県内の主要企業トップとのゴルフに馳せ参じる予定だというが、翌日のことなどまったく関係なく、ひたすら呑み進むのだ。こちらが堪らず、白旗を挙げて退散したことが妙に記憶に残っている。
 さて、わが書棚に異質なものが並ぶことになった。「売る力ノート」(かんき出版)。営業マン向けの実用書である。「最年少役員が書き続けた仕事の“気づきメモ”」との副題がつき、著者は野村證券元専務・津田晃とある。この男こそ大学同期、抜け目のなさは抜群で優の数はクラスのトップクラス、競争社会を生き抜くようにできている男だった。その頃野村證券が標榜していたのがキープヤング路線で、この津田が43歳で取締役大阪支店長に抜擢され、週刊朝日は見出し付きで特集した。同期のメンバーは課長クラスの時である。当時の田淵義久社長から「営業の鑑」と評される如く、異名「ノルマ證券」という厳しさを、嫌だ、ムダだと思わずに楽しんだというから、相当な神経と体力の持ち主ということになる。
 一方、東大法学部卒卓球部は稲野和利・同社副会長である。津田を兄貴分として、同様なコースを歩むが、やはり東大と早大の差が垣間見える気がする。70年の後半から、野村證券は田淵節也社長を筆頭に、国際化をひた走り、中国市場にも大きく食い込んでいた。上海・浦東地区の開発が軌道に乗った時期で、北陸銀行の上海駐在事務所開設とも重なり、野村證券に全面的にサポートしてもらって、中国市場に焦点をあてた企画を富山で展開することができた。100人近い視察団も結成して訪中、上海花園飯店に投宿したのだが、1泊3万円したのには驚いた。
 そんな野村證券も91年の損失補てん事件、97年の総会屋への利益供与事件が大きな影を落とす。津田も転籍を迫られることになった。それから10年、野村のダイナミックDNAは健在なのだと思わせたのが、リーマン・ブラザーズの韓国を除くアジア部門と中東・欧州地域部門の買収。ほぼ2,500人の人材と多くの海外顧客を獲得したこと。そこにも多くのストーリーがあるように思われる。グローバルとローカルが優しく交差したり、激しくぶつかり合ったりして、潮流は流れていくことは間違いない。
 ところで、わが大学卒業時の優は5個、クラスの最低で、津田の6分の1であった。野村證券にはイムニタスマスクの在庫すべてを買うからといわれても、入りたくない。

© 2020 ゆずりは通信