金融革命家の挫折

彼の名前を具体的に聞いたのは、03年3月金沢市で開かれた石川銀行訴訟原告団集会の席だった。石川銀行は破綻が確実なのに、200億円の第三者割当増資を預金者や融資企業に行なった。配当の方が利息より高いし、値上がりも見込めるとか、増資に応じないと融資できないとかいって、行員にノルマを課してのものだった。その席上で原告団代表が、富山出身の木村剛さんが尽力して、この訴訟を契機に増資のためのガイドラインが作られたと報告したのである。原告団としても彼を頼りにしている風で、芳しからぬ風評もあるが、なかなかの正義漢に聞こえた。
 あれから7年余が過ぎた。時代の寵児ともてはやされた木村は日本振興銀行を創設し、わずか6年で破綻させてしまった。銀行法違反で逮捕され、今は保釈の身である。9日の記者会見では「私の力不足で道義的な責任は痛感している。しかし、理念は今でも正しいと思っている」と力なく頭を下げた。
 そんな彼を講演に招いたことがある。当時の名刺には「KPMGファイナンシャル代表取締役社長」とある。KPMGは世界で6本の指に入る米大手会計事務所で、金融行政へのアドバイスと金融コンサルティングが仕事内容だ。98年に日銀を退職し、翌月に転じているのでその頃であろう。日銀ニューヨーク事務所での勤務ぶりを高く評価したヘッドハンティングである。その時の記憶では、米本社からの指示の厳しさと階級の落差に悩んでいるようで、日本に駐在する担当は家賃100万を超えるようなマンションに住んでいる、とぼやいてみせた。しかし、その押しの強さを前面に期待に違わぬ活躍で、2年目で黒字化、3年目で累積損失の解消という米資本の獰猛な要求に応え、KPMGの日本での橋頭堡を築きあげた。
 どこでどう踏み間違えたのか。富大付属中、富山中部高校ともにサッカーで鳴らし、インターハイにも出場している。数学が得意で、東大経済学部の卒業論文「消費者行動理論の再構築」で大内兵衛賞を取得し、日銀でも嘱望されて、福井前日銀総裁が彼の仲人である。文武両道に加えて、強烈な野望が日銀時代にへばりついたようだ。
 01年小泉政権が発足し、掲げたのが構造改革で、不良債権処理を2~3年で処理すると明言した。その前年にスタートしていた金融界初のNPOと銘打った「金融イノベーション会議」が俄然注目されてくることになる。竹中平蔵慶応大学教授、福井俊彦富士通総研理事長が名を連ねているが、実質的には事務局長に納まった木村がシナリオを描いていた。もう一枚名刺がある、同じく富山出身の西崎哲郎。いつのものか記憶にない。共同通信記者からいろいろ渡り歩き、同会議の理事長となって木村の後見を任じている。当時の名刺には国際ピーアール社長となっているが富山県人脈ともいえる。いわばこのメンバーが小泉政権の中枢に入っていったのである。
 「銀行をつくりたかったら、すぐにできます。東京JCメンバーで20億円集めれば大丈夫です」東京青年会議所に招かれた講演でこんな風に話をしたのが、日本振興銀行のスタートになった。銀行免許取得のためのコンサルティング料が1億円で、この契約が成ったのは03年5月で、りそな銀行破綻の3日前であった。りそな銀行を破綻、国有化に追い詰めたのは誰あろう、木村本人である。朝日監査法人の38歳の若者を自殺までに追い込むほどのものであった。自ら策定した竹中プランにしたがって、ひとつの銀行を潰し、もうひとつを誕生させたといっていい。ある時は行政に、ある時は民間のコンサルタントとふたつの顔を使い分けたのが躓きの始まりで、政治権力の背景を失うとあっという間に転げ落ちてしまった。48歳にしての大きな挫折である。
 先輩である老人としては、鞭打つは罪であり、人はやはり救わなければならない。できれば、サッカー界でのマネジメントなどで再起してほしいと思っている。
 参照/「世界」10月、11月、1月の各号。

© 2024 ゆずりは通信