「朝鮮半島で迎えた敗戦」

生後45日で韓国・光州から引き揚げた身であるが、思えば小さな幸運に支えられた命であることを今更ながら愛おしく思われる。もし38度線の北側で生まれていればこうして生きていることも覚束なかったであろう。戦後70年の掉尾を飾るということで「朝鮮半島で迎えた敗戦」(大月書店刊)を挙げる。東京新聞での連載に目を見張っていた。家族からでは聞き出せない事実でもある。ふたりの記者の取材は米国立公文書館所蔵の資料を渉猟し、関係者の証言を丹念に集めることで構成されている。この事実に真正面から向き合うべきだと思う。
 ちょっと衝撃的だがこのことから紹介したい。「不幸なる御婦人方へ至急御注意!」。敗戦翌年の1946年春、北朝鮮や満州からの引揚者を乗せて博多港に向かう船の中でこんなビラが配られた。「心ならずも不法な暴力と脅迫により傷つけられたり、又はその為身体に異常を感じつつある方には再生の祖国日本上陸の後、速やかにその憂悶に終止符を打ち、希望の出発点を立てられる為に乗船の船医へこれまでの経過を内密に忌憚なく打ち明けられて相談してください」。満州や北朝鮮に進駐してきたソ連兵や日本の支配から解放された朝鮮人、中国人に乱暴を受け、心も体もズタズタになった女性たちに、追い打ちをかける望まぬ妊娠や性病感染に対処するために京城大学医学部の医師たちが作成したビラである。中絶手術は1000件を下らず、それも麻酔なしで行われた。「マダム、ダワイ!」(女を出せ!)と押し入るソ連兵。囚人部隊と呼ばれるソ連兵の女性暴行は凄惨を極めた。38度線を分けての残留日本人への待遇の差は天地を隔てるようなものであった。飢餓と発疹チフスなどの感染症が猖獗を極め、その上に氷点下10度を下回る厳冬が襲い掛かってくる。収容所とされた旧遊郭などでは、男は髪も髭もぼうぼうと伸びるにまかせ、女は髪を乱し、またある女は男装をし、老若男女を問わず一様に落ちくぼんだ眼をして、顔は青白くむくむか、やせて頬骨がとび出ていた。廊下の真ん中には10ほどの菰包みの死体が積み重ねてある。立ちすくむような陰惨な風景だった。
 南朝鮮にいた邦人40数万人は46年春までにほとんどが引き揚げた。北朝鮮にいた31万人を超える邦人のうち27万人以上は自分の足で南朝鮮に脱出し、26000人以上が飢えと病で死亡した。
 忘れてならないのは、遊郭出の女性がソ連兵相手の慰安所を作り、日本女性を守ろうとしたことであり、思想犯として朝鮮の刑務所にいた日本人ふたりが朝鮮人の信頼を得て、北から南への脱出工作で自らを省みない活躍をしたことである。「黙々と多くを語らず、温情は全身に溢れて、日本民族脱出のために鬼神を泣かしめる離れ業を敢行した。北緯38度線が生んだ日本民族の巨星」と感銘を与えた。権力を有しない無名の人間の崇高な働きこそ記録にとどめおかねばならない。引揚者を身内に持っておられる人はぜひ読んでいただきたい。
 さて、歳の暮である。伴侶のいない老人には、せかされない寂しさがある。破れ障子も気にしなければそのままでいいし、ガラス戸の汚れも然り。本の片づけと思っても、つい読み込んでしまってそのままとなる。そんな無精者にとって、唯一欠かせない行事がある。師走の最後の日曜日に行われる近所の農家の餅つきだ。恒例となってほぼ30年、何をさておいても駆け付ける。すべてお膳立てが出来ていて、長靴を履いていけばよい。この数年は返し手が足りないので男ながら返し手に回っている。大声を出して、手返しでのリズムを搗き手に送るのだが、実に楽しい。そうした善行もあって、有馬記念を枠連でゲットした。とても痛快な年の瀬であった。みなさん良い年を!

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