傲慢症候群

2016年は大きな分岐点になることは間違いない。7月の参院選はそれを占うことになる。現政権は経済最優先をさておいて、改憲をこの選挙の争点に挙げた。この支持率では勝てると踏んだのである。首相の心底にあるのは、こうであろう。選挙結果こそすべて、投票は自らの生殺与奪の権限を預ける白紙委任である。議員は党規に縛られた投票マシーンに過ぎない。公認するということは党規に従うこと。党を代表し、内閣総理大臣になるということは国家の最高指揮官だ。いってみれば、総理である自分の判断こそ国家の意思である。またそのくらいの責任感と覚悟がなければやっていけない。そんな自分に批判することは叛逆である。というわけだから、国家予算を意のままに選挙対策に使っても当然のこと。傲慢が歩き出している風景だ。
 枝野幸男・民主党幹事長は、首相の答弁について「 基本的に民主党政権の批判と悪口だ。聞かれたことに真摯に答えずに、過去の批判を繰り返す。政治の劣化ぶりは大変深刻だ」と非難するが、まだまだ手ぬるい。いまだに非自民・非共産という中途半端なバランス論では、選挙は戦えない。改憲阻止のもとで、野党統一候補でいくしかない。現政権のもとで小さな、一見良さそうな改憲であってもさせてはならない。ここで敗れたら、民主党は名前を変えるというがその行く末は無残な結果になるだろう。ここで逡巡する民主党内の保守勢力を切って捨ててでも、という気概がなければ勝てないことを肝に銘じてほしい。
 「がちナショナリズム」(ちくま新書)は、「アベ官邸から論外」と名指しされた精神科医の香山リカだが、この現実を的確につかんでいる。02年に「ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義」を上梓しているが、「愛国ごっこ」でとどまっていたのがここ10年余でラディカルなナショナリズムに転じてしまったという指摘である。
 それはファシズムが歩き出しているという認識である。昨年11月15日産経新聞と読売新聞に掲載された「私達は、違法な報道を見逃しません」「放送法第4条をご存知ですか」という全頁の意見広告は、政権批判を封じ込め、戦後民主主義の息の根を止めることにつなげる布石である。NHKに続いて民放にも報道の自由は許さないということ。つまり、政治的な公正、公平を持ち出して、細かい難癖を執拗に持ち出し、経営トップを総務省が放送法も盾に呼びつける。こんな監視を放置すれば、報道の現場は萎縮してしまい、ひたすら自主規制に走り、もっとひどいことに進んで権力の側にすり寄っていく現象が目に見えてくる。
 香山の心理分析によると、アベさんは傲慢症候群に陥っているという。「権力にある者に起きる特有の人格の変化」。おとなしく気の弱い人間が要職に就くと、次第に尊大になり、「聞き役」だったはずがいつの間にか一切人の話を聞かずに自分の功績やビジョンを一方的に話しまくるようになる症状だ。そういえばそうだという人は誰にも思い当たるはずである。傲慢症候群は一人歩きをしない。この時とばかりに擦り寄るヒト、あるいは擦り寄ったふりをしないと生きていけないと思った普通のヒトたちが作り出していくのである。安倍政権が「ほら、あそこに敵がいますよ。この敵がみなさんから正当な権利や名誉を奪っているのですよ」と指させば、傲慢症候群を支えるヒトの攻撃はそこに向かう。生活不安は生き残るために社会の中で孤立することなく多勢の側についていたいという思いを強くする。そんなヒトが傲慢を支える側、傍観する側に回る。
 「あれはファシズムだった。私はそうとも知らずに支持していた」というドイツの声を思い出してほしい。傲慢症候群の本質を見抜いて、傍観者にならないことだ。今年はこれをいい続けていきたい。

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