弔辞

「私も、あなたの数多くの作品の一つです」。タモリが赤塚不二夫に捧げた弔辞の一説だが、平成20年8月のことだが記憶に新しい。ここに至るくだりは「私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました」。
 わすか数分に凝縮された、万感の思い。故人との濃密な関係があったからこそ語られる、かけがえのない思い出、知られざるエピソード、感謝の気持ち。葬儀無用論者であるが、そんな弔辞を聞くと、葬儀も悪くはないと思えてくる。
 初めて弔辞を頼まれたのは、30年も前になるが同期の林宏が浜松で亡くなった時だ。養父の林三雄・富山大学教授から葬儀の始まる直前に頼まれた。異郷での数年に及ぶ療養生活もあり、会葬の人も数えるほどであった。養父としていたたまれなかったのであろう。宏に言葉をかけてやってほしい、といわれて逃げるわけにはいかず、思いつくままに語り掛けた。富山から浜松に駆けつけて、ホテルで宿泊もしていたので、心の中ではそれなりの整理がついていて、そのままを綴った。2度目は昨年7月5日の森田征夫の葬儀で、練りに練って5分に及ぶ長いものになった。背後で、あの人は誰か、と隣の人に問いかけている空気が読み取れた。
 そして、3度目が思いがけずやってきた。後輩の東海龍で、入院したと聞き、見舞ったのが6月3日で、訃報を聞いたのは7月18日である。肺がんであったが、強烈ながん細胞が彼の体内を駆け巡り、診断書には肝転移、骨転移、脳転移、副腎転移とはみ出すように綴られていた。闘病2か月で、あっけなく逝ってしまった。同じ町内に居を構え、家族ぐるみの付き合いでもあったので、葬儀の相談にものってほしいと頼まれた。20日通夜、21日葬儀の日程であったが、リタイアして2年ということもあり、通夜の参列が多いと見込まれた。突然の訃報で多くの参列者はどうして急に、と思うに違いない。しかし、通夜ではその経緯が全くわからないままになってしまうのではないか。それでは、皆さんの弔意に応えることはできないと思い、弔辞の原稿を20日午後に書き終えるから、それをコピーして渡してはどうかと提案した。というわけで、120人収容のところに140人近い人の参列であったが、それぞれが席にあって目を通してもらい、何となく事なきを得た。非常識なはからいであったが、葬儀でのおもてなしとしてよかったと思っている。20日の葬儀は弔辞を読むので、更にコピーの配布は必要ないということにした。
 文春新書「弔辞 劇的な人生を送る言葉」を書棚から取り出してきたのだが、勝新太郎が石原裕次郎を、倍賞千恵子が渥美清を、池田勇人が浅沼稲次郎を・・・それぞれ個性的に劇的な言葉で偲んでいる。弔辞文学といっていいのではないだろうか。
 考えてみると、この「ゆずりは通信」なるものも、ほとんど先に逝った友人への鎮魂を書き綴っているといっていい。恐らくこれからはもっと多くなるに違いない。弔辞の予約を友人の二人から、受けている。彼らより長生きするという前提だが、こればかりはわからない。葬儀無用といっているので、自分への弔辞は当然ないことになる。

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