「暗黙知」をどう伝達するか

「2・6・2の法則」といわれるものがある。いかなる組織にも、どんなに優れた組織にも、優秀な2割、平均的な6割、「ぶらさがり」の2割が存在するというもの。ちょっと身近な組織なるものを想像すると、なるほどと思われる。

しかし、企業経営者であれば、なるほどでは済まされない。「ぶらさがり」にため息をつき、平均の6割にはもっとどうにかならないものかとイライラする。この改革は困難を極めるが、この法則に挑戦し、一定成功した企業がある。日本ロシュ。全世界規模で医薬品事業を展開するスイスの多国籍企業ロシュ・グループの日本法人。ところで、MRという職業をご存じだろうか。メディカル・リプレゼンタティブの略で、医薬情報担当者。医者に医薬品情報の伝達を主として行う職業。これはなかなかに難しい仕事。かつてはプロパーと呼ばれていた。誤解、偏見を恐れずにいえば、プロパーのイメージはこんな風。ほとんど医者の御用聞き。開業医を訪ねるのは午後7時過ぎ。当日の雑務が終わるのを待って接待。先生行き付けの高級割烹、クラブをはしご、休診日にはゴルフ。しかしこれまでになるまでどのくらい苦労があるか。先ず奥さんの信用を得ること。家事・ファッションの相談まで承る。意地悪な年配事務長、看護婦、薬剤師の嫌み、蔑みをかいくぐらなければならない。もちろんその前に本業である医薬に関する情報のレベルを維持しておかねばならない。学術知識と下世話な情実の機微、この相反する才能を兼備することが求められるのである。さるプロパーに頼めば、どんなチケットでも手に入ると聞いたことがある。彼の背後にダフ屋とつながり、バックアップする組織があるということだ。MRはそんな前近代的な手法から脱却すべく生まれた。MR資格取得前であれば年間100時間、取得後は40時間と教育が義務づけられている。セールスではなく、情報伝達者である。しかし医薬品企業の最前線での厳しい競争を担っていることに変わりはない。昔のプロパーということで付き合う医者だって多いにちがいない。
日本ロシュは580人のMRを抱える。2割の優秀なMRの中から更に24人を選抜。これを社長直属の組織として、「平均」「ぶらさがり」の中にぶち込んだのである。優秀なMRはマニュアルにない何かを持っている。しかしこれはどうも伝達不可能といわれる個人に蓄積されている技とか、勘とかのレベル。これを「暗黙知」と名付けたのが、野中郁次郎一橋大学教授。言語化・形態化できない「知」だ。いわばこの暗黙知を、連合艦隊司令長官・山本五十六のいう「やってみせて、いって聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ」を実践の中で伝授していこうと日本ロシュは試みたのである。失敗すれば24人を現場から引き抜いたわけだから、現場は戦力ダウンとなり、売り上げは急降下することは間違いない。これを論拠に猛反対する社内守旧派もいた。しかし24人は頑張ったし、それを送り出した部課も戦力穴埋めに懸命となった。この成功の秘訣はトップが強い意志を持って決断したこともある。しかし、それ以上に決め手となったのは、この「暗黙知」が、現場で、言語または形態に結晶された「形式知」におきかわり、「平均」「ぶらさがり」に伝達されていったこと。つまり「暗黙知」が「形式知」となり全員が共有化できた。そこにまた優秀なるMRによって更なる「暗黙知」が生まれていくのである。この上昇スパイラルができれば、企業は永遠の発展を確実にできるというわけだ。

暗黙知をオープンにしたら、ライバルに虎の巻を教えるようなものではないかという論もある。そのようなけち臭い器では、次なる成長発展はあり得ないことを日本ロシュの経営は物語っている。

さて、あなたの暗黙知は何か。「ぶらさがり」だって暗黙知を持っている。なんとか定年まで権力の眼からすり抜けて、生き延びる法とか。ところがこれを共有していくと100%「ぶらさがり」に。そんな組織もあるような気がする。トップも含めて、泥船だということに誰も気づいていないか、恐くて気づかない振りをせざるを得ない組織。加えて、一番厄介なのが「ぶらさがり」のくせに優秀だと思っている人。あなたのそばにもいるでしょう。

今回は「にいかわビジネススクール」のケースメソッドで学んだものです。

© 2020 ゆずりは通信