車谷長吉、死す

朝食前に、妻と散歩を楽しむのが日課であった。「おれコンビニ寄って、先に帰っているから」と別れて、好物のだんごを買い込んで自宅にたどり着くや、袋を開けるのももどかしく、口に放り込んだ。甘さが口中に広がり、うまいと思った。ところが、いざ飲み下そうとした時に、喉にひっかかった。吐き出そうにも吐き出せない。手を口に突っ込むがどうにもならない。息苦しさが差し迫ってくる。もんどりうって倒れこむ。喉元を掻きむしり、爪が皮膚に食い込んで血がにじむ。一瞬の意識だが、こうした断末魔もおれの最期としてふさわしいという思いがよぎった。悶絶の窒息死である。
 作家というより文士・車谷長吉(くるまだに・ちょうきつ)はこうして逝った。5月17日のことである。昭和20年の同年生まれということもあり、彼の著書は10冊以上買い込んでいる。有楽町にあった読売ホールでの講演会にも出かけ、小さな坊主頭で、風呂敷に講演資料を入れて登壇して、播州弁でいかにも気持ち良さそうに能弁にしゃべるのを、同年の直木賞作家はこの程度か、と聞いていたように記憶している。同年ゆえにライバル心が頭をもたげるのだが、これだけは仕方がない。
 それよりも詩人・高橋順子との結婚が悔しい。住まいは谷根千(やねせん)の千駄木の路地奥である。長吉48歳、順子49歳の残り物同士の初婚。一篇の詩に自分の生命のリズムと同じ脈を打っていると、毎月絵手紙を送り続け、結婚にこぎつけた。結婚生活は「けったいな連れ合い」(PHP刊)で綴っているが、車谷の強迫神経症体験は詩集「時の雨」となって私小説ならぬ、私詩?として結実している。幻覚と幻聴、幻視に悩まされ、一日に何十回も手を洗い清め、高橋の立ち振る舞いを規制する日々をよくも耐えているな、と思う。原因は芥川賞を逸したことに加え、西武の堤清二に拾われ嘱託となって禄を食んでいたが、西武が傾き、自宅待機になったことなどがからんでいる。無頼そうに見えて、小心なところもあるのであろう。一方、二人だけの千駄木にちなむ駄木句会は毎週月曜日、夕食後に席題3句を続けているが、ふたりの掛け合いが見えてくる。
 それほどの野心ではなかったが、「作家になるためには、1年にひとりの作家の全集を全部読む必要がある。それを30年ぐらいくり返す。また自分が気に入った作家の作品1篇を、50回ぐらい声に出して読み、耳から聞いて全部記憶してしまうこと。私の場合は、森鴎外の『阿部一族』をそうした。国語辞典、漢和辞典を全部読む。これは必要条件であって、十分条件ではない。これだけの努力をしても、なれない人はなれない。覚悟が必要である」という車谷の言が断念するのに躊躇させなかった。
 老人の想像するところ、兵庫県一の進学校・兵庫県立姫路西高等学校の高校受験に失敗したことが彼のすべての生き方の根底に、どうしても消えないものとして、時には強烈な上昇志向に、そして時には神経症にと影響を与え続けたのではないか、と思っている。通俗な見方過ぎるが間違ってはいないだろう。
還暦の時に、嫁はんより先に死ぬことである。この家に一人取り残された時のことを考えれば、全身が戦慄を覚えるほど恐ろしい、と「死のやすらぎ」と題して日経に寄稿している。喉を掻き毟りながらも、ようやくに安らぎを得たと思ったのではないだろうか。
 お前みたいなボンボンにはこんな死に様はできないだろうと、挑戦状を突きつけられた思いもしないでもない。高橋順子の「やもめの記」なるものを書いてほしいし、読んでみたい。

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