東北の旅

断ち切れそうになっていた友情がよみがえった。わだかまりや含羞を超えての復活だが、一歩間違えば孤独死、無縁死というのも決して他人事ではないという現実も垣間見させてくれた。連絡はせずに急襲し、出たとこ勝負で地元の温泉に誘うという企みだが、賭けでもあった。不在であれば、これも天の配剤として受け入れるしかない。顔を見て扉を閉じることがあっても、それはそれで踏ん切りがつくというもの。それほどまでの覚悟をしなければならないほど、わがドン・ホセとの関係は冷え切っていたのである。
 そのドン・ホセが我ら高校同期の4人を招きいれ、ギターを爪弾いてくれた。指の動きは時に乱れ、今生の別れのような切なさで、今にも涙が溢れそうになった。
 6月5日仙台からレンタカーで、いわき市小名浜に乗りつけた。ナビはこのあたりと指示するが見つからない。酒屋、パンや、通りがかりの人に尋ねるが見当さえつかない。海をのぞみ、庭から海に向けてゴルフボールを打ち込むことも可能、庭の手入れは欠かさないとの断片情報から、一旦海近くまで降りて丘を見上げることにした。突き出たところに青い瀟洒な家が見えて、あそこに違いないと見定めて再度挑戦したのだが、探し始めて1時間は越している。不動産屋でコピーしてもらった地図を片手に、たまたま庭に出ておられた方に、そういえば別荘があると案内してもらい突き止めた。ひとりが早速小走りで偵察に行くと、「間違いない。庭で芝の手入れをしている」と引き返してくるが、言葉をかけられなかった。怖いのである。スキンヘッドはそのままだが、ずんぐり短躯で、押し出しのきく体型は一変し、少年のようなスリムさに変わっていた。声も弱々しく、サングラスをかけ、しきりに眼に手をやる。よく見えないらしい。
 「お前ら先週に来ていれば、会えなかったぞ。糖尿病網膜症の手術を終えて退院したところだ」。1月に眼の不調に気付き、すぐに手術と診断されたが、「ヘモグロビンA1c」が10%以上でこれを下げなければ手術もできないといわれ、過酷な入院をして6・1%に下げ、ようやくに手術に漕ぎ着けた」とボソボソと庭先で語り出した。そして、ドン・ホセは散らかった居間に、我ら4人を招きいれた。テレビはまだ東芝製のアナログ、石油ストーブは埃をかぶっている。テーブルの上は雑然としており、干からびた貝柱が封をきったまま置かれている。適当に腰掛けろといわれ、聞かせるよと愛用のギターの中から最も高価なものを引き下げてきて、おもむろに時間をかけて弦の調整をやり、爪弾いてくれた。和解のサインでもある。言葉にしたら薄っぺらになってしまうし、とても耐えられない。男のぎこちなさでもあるが、これが男でもある。
 旅の目的は、もうひとつあった。地震被災地をこの眼で見ることである。仙台からクルマを飛ばして20分くらいだろうか。前日の4日午後、若林区荒浜地区に降り立った。海から程近い荒浜小学校は廃虚となり、グランドには壊れたバイク、農機具が並べられていた。黄色いハンカチのそばに、もう一度ここに住むぞとの決意が書かれている。行政からは災害危険区域に指定され、居住は禁止となっているのだが、心に刻まれた記憶が許さないのだ。ドン・ホセの故郷・岩瀬と似たような光景でもある。祈る言葉もなく、老醜をさらして生きていることが申し訳なく、ただ海に向かって頭を垂れるしかなかった。
 はてさて、地元いわき湯本温泉行きはどうなったか。4人の誰もが、ギターを弾き終えると、さあ帰ってくれ、というだろうと思っていた。ところが案に相違して、久しぶりに麻雀に興じることに同意したのである。それも眼が不自由なのに自分の車で行くといい張る。旅館の堀コタツ部屋は、50年もタイムスリップして青春時代と変わらぬ光景となった。何と夕食時になると、俺は家に帰って自前の食事をし、インシュリンを打ち込んでまた来るからと、深夜まで続いたのである。孤独死かと思った男が、麻雀に一喜一憂するのだから、これまた言葉を失う。昭和20年生まれの人生はこんなもの。こうしてふざけながら、逝くのがふさわしい。

© 2024 ゆずりは通信