ヤキバノカエリ。熊谷守一

 1枚の絵が脳裏にくっきりと残った。石川県立美術館で開かれた熊谷守一展「わたしはわたし」。3月7日、風の寒さが残る中、マフラーをカバンに忍ばせて出かけた。小品180点だが、これほどの規模とは思わなかった。画風が変わっていく過程は、彼の人生の春夏秋冬をみるようだった。脳裏に残ったのは「ヤキバノカエリ」。長女・萬の亡骸(なきがら)を火葬し、その帰りの情景を描いている。骨箱を手にするのは長男・黄、そばには次女・榧(かや)、白髭が父・守一。それぞれの顔から表情はうかがえない。絵の鑑賞とは、画家と鑑賞者の格闘でもある。画家は余分なものを削ぎ落し、観てほしいものを差し出さなければならない。鑑賞者は五感を研ぎ澄まして感じ取る。「ヤキバノカエリ」は熊谷守一76歳の作である。単純な線と明快な色彩で表現する、いわゆる「モリカズ方式」と呼ばれる作風はこの作品で完成を見たのかもしれない。

 さらなる愚問だが、鑑賞力未熟な凡人は考える。絵と言葉は違う。例えば青といわれたら、青の範囲がある。しかし、絵は具体的に青を選ばなければならない。この絵の題名「ヤキバノカエリ」はいい当て過ぎてはいないか。逆縁の悲しみを見る前に想起させる。もし「白い箱」と付けたら、どうだろうか。絵の題は符丁でいい。そんな疑問を帰りのバスの中で反芻していた。

 それはさておき、生誕140周年の熊谷守一を振り返っておこう。こんなエピソードから始めたい。「紙でもキャンバスでも何も描かない白いままが一番美しい」とうそぶき、昭和天皇が「子供の絵か」と尋ね、説明役の画家・宮本三郎が「七十いくつの年寄りの絵です」と答えている。

 1880年岐阜県恵那郡付知(つけち)村に生まれ、1977年97歳で没した。父親はやり手であったが、妾を何人も持ち、熊谷は生母ではなく、第二夫人の養子となって育てられた。そんな境遇が通俗を最も嫌う性格を作り出したのだろう。父親の急死で家は破産、当時の金で50万円の借金を受け継いだ。今だったら数億円か。極貧の中でも品性を失わない。「絵を描くより遊んでいるのが一番楽しいんです。石ころ一つ、紙くず一つでも見ていると、全くあきることがありません」。85歳の時、文化勲章の打診があったが「わたしは別にお国のためにしたことはないから」と辞退し、「もっと放っといて長生きさせてくれっていうのが正直なわたしの気持ちです」。
 画学生の妻でもあった秀子に構わず結婚を申し込んだ。熊谷42歳、秀子24歳。前夫との間に子供のなかった秀子に、結婚した途端次々と5人の子供が生まれた。名声も富にも関心のない熊谷のさわやかな色欲が微笑ましい。しかし子供のために絵を描くわけではない。そのためかどうか別にして3人の愛児を亡くしている。次男の「陽が死んだ日」は大原美術館に収蔵されているが、凄まじい悲哀があふれている。ヤキバノカエリとは対照的である。

 東京芸術大学西洋画科で黒田清輝に学び、青木繁が同期。    若くして亡くなった青木を偲んで描いた「太郎稲荷」もいい。作曲家・信時潔を生涯の友として、音楽にも親しんだ。映画「モリのいる場所」で、山崎努と樹木希林が演じた熊谷夫妻は好演であった。いま一度見てみたい。

 最後に残念な知らせ。めいてつエムザが3月末で閉店となる。立ち寄りやすい店として、愛用していた。

 

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