思い出袋

「自分が日本国籍をもつから日本政府の決断に従わなければならないとは思わなかった」。1942年5月、そんな思いを抱きつつも、彼は米国ボルチモアにあった日本人捕虜収容所で「日米交換船が出る。のるか、のらないか」と聞かれて、「のる」とこたえた。この国家(日本)は正しくもないし、必ず負ける。負けは「くに」を踏みにじる。それでも「くに」とともに自分も負ける側にいたい。敵国家(米国)の捕虜収容所にいて食い物に困ることのないまま生き残りたいとは思わなかった。まして英語の話す人間として敗北後の「くに」にもどることはしたくない。
 彼の人生を貫くものは、「国家と個人」の厳しい関係認識である。生まれてしばらくだが同じ言語を使い、同じ土地、同じ風景の中で暮してきた家族、友達。それが「くに」で、今、戦争をしている政府に反対であろうとも、その「くに」が自分のもとであることにかわりはない。現在88歳の思想家、哲学家というが、人生そのものが普通のヒトの哲学に満ちている。
 今回のテーマに擬していた岩波新書がどこかに消えてしまった。カバンをぶちまけたが出てこない、車の中だろうと思って、座席を探すが見当たらない。銀行で待つ間も手にしていたので、忘れてなかったかと問い合わせをしてみたが、ないという返事だ。はてさてと悔しさがつのり、疲れ果てる数日であった。思えば、本に始まり、眼鏡もそうだ、車のキーも、携帯電話もそうで、家の固定電話を使って、自らの携帯を鳴らして、その音の行き先を探るのもしばしばである。というわけで、2冊目の岩波新書・鶴見俊輔の「思い出袋」を手にしている。
 その後の鶴見だが、海軍軍属に志願し、ジャワ島に赴任。主に敵国の英語放送の翻訳に従事した。大本営発表とは正反対の情報を軍首脳部に届けていたのである。戦中に反戦の声を挙げなかった自責の念が強く残り、戦後「思想の科学」を創刊し、ベ平連活動の中心的な役割を果たし、脱走米兵を支援している。
 もうひとつの真骨頂は、日本の学校教育への痛烈は批判だ。日本の知識人の記憶は短い。これは明治以来の学校制度に問題があり、先生が問題を出す、正しい答は先生が出す答に決まっている。その先生が学年毎に代わるから、新しく出会う先生の答をいち早く察知して答案を書くことが知識人の習慣となっている。20年以上、自分で問題をつくることなく過ぎると、問題とは与えられたもの、その答は先生が知っているものとなる。したがって、転向をまったく不思議としないことが日本の知識人の共通の性格だ。日本の大学は、日本の国家ができてから国家がつくったもので、国家が決めたことを正当化する傾向が強い。しかしハーヴァード大学は1636年創立で、1776年の建国よりもずっと早く、国家を創り上げていくという意識である。手厳しいがその通りである。
 彼は愛読書に水木しげるの「河童の三平」を挙げている。息子にも読んで聞かせ、息子はそれを諳んじてしまって、友人や泊まりに出かけた岡部伊都子に読んで?聞かせているという。卑近だが、自分の答を信じて生きようとの証左のひとつだ。
 さて、彼が創立した思想の科学社だが、中学同期の余川典子さんが瀬戸際で踏ん張っている。数年前に自社刊のハンセン病女性の自伝「地面の底がぬけたんです」を送ってくれた。結純子の一人芝居で脚光を浴びて、版を重ねているので、うれしく、ありがたいとあった。どんな経緯で、彼女が思想の科学と関わったのか知らないが、鶴見がその功労を称えている。仕事、仕事と頑張っていて、娘から「バカみたい」と云われているらしいが、わが同期の誇りでもある。

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