ソウルにて

京都の平安神宮から少し下ったところに無隣庵がある。小路を入るのでちょっと分かりづらい。山県有朋の別荘で、庭を眺めながらの呈茶サービスも行っている。この無隣庵で、桂太郎首相、小村寿太郎外相、元老の伊藤博文、山県有朋の4人が集まり、日露の交渉において、朝鮮をわが国単独で押さえることとし、いかなる場合、いかなる艱難に際しても譲歩しないことを決めた。明治36年6月23日のことで、以後40年余におよぶアジア侵略の端緒をひらくものであった。日清戦争では日本人2万人の命を亡くしての勝利であったが、それでも朝鮮の利権を確立し得なかった。論理はこれでロシアに屈すれば、あの命は何だったのかとなりかねない。朝鮮をわが植民地とするか、わが国がロシアなどの植民地となるか、だ。というわけで、日露での戦争も辞さずとなったわけである。
 7月1~3日ソウルに遊んだ。ひととき国立中央博物館にある図書室で、持参した岩波新書「日本の近現代史をどう見るか」を開いたのだが、3年前の無隣庵のことが思い出された。朝鮮をわが国の存亡を決める生命線とするしかなかったのか。司馬遼太郎に代表される「韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば、朝鮮半島という地理的条件にある」という地政学だけで片付けていいのか。そんなことを彼の地で考えてみたいと思ったのである。
 もう1冊というより、1部と呼ぶのが適当な「検証“坂の上の雲”」も持参した。えひめ教科書裁判を支える会の発行で、A4版114頁の500円。司馬史観に真っ向立ち向かっている。明治期の日本を賛美することで、新たなナショナルアイデンティティを確立しようとしている動きと、坂の上の雲NHK放映が連動していると批判する。司馬の願うような本来の日本では、明治期国家の持っていた対内、対外を問わずその抑圧性、侵略性から目を恣意的に逸らすことに他ならない。あの司馬なら、安心して許されるだろうと、従来果たせなかった回帰的な国民統合をやろうということだ、と鋭く迫っている。
 日清、日露のこのふたつの戦争は避け得たかも知れないという論もある。伊藤博文や井上馨が朝鮮国の列国共同管理案なるものを温めていたという。また明治新政府成立直後に米欧を訪れたいわゆる岩倉使節団の報告書には、後発日本が小国として生き残る方法についても多くを割いている。これが実現していれば、まったく歩みが違っていたかもしれない。しかし、ふたつの戦争を経て、国民の誰しも同じ目標を持って醸成された国民国家意識は、日比谷焼き討ち事件に代表される熱狂を生み出し、そうした理性的なものを拒否したであろうことは間違いない。
 明洞(みょんどん)で、静かにマッコリを飲んだ。若者向けの食堂だったのだが、酒を注文しているのは老人だけで、若者達は食事をしながら談笑していて、極めてストイックなものを感じた。ほろ酔いでソウル市庁舎広場に差し掛かった時、耳にしたのは「インターナショナル」だった。もちろんハングルだが、大漢門という朱塗りの門構えの境内で、ほぼ15人程度の若き労働者が腕を突き挙げながら、歌っている。サムスンか、ヒュンダイの下請け工場なのだろうか。先駆けてFTAを推進する経済政策は、日本よりはるかに厳しい競争と格差にさらされている。つい声を掛けたくなる。「韓国の若き労働者諸君!日本の老人だが、心から連帯のあいさつをおくりたい。日本の若者も苦しんでいる。閉じこもらず歴史を語り、グローバル資本の本質を語り、共闘の小さな礎を築き始めてほしい!」。
 ソウルの街頭で目の当たりにするこの民族のパワフルな躍動をみていると、あの時代の屈辱を、そして今に続く南北分断をどのようにとらえているのか、系統立てて聞いてみたいと思う。もちろん、その未来についても。

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