ノンエリートの社会空間

「親父は勝ち組だろう」。友人が息子からこういわれた。15日、男女18人が集った高校同期の席だが、見渡してみると、これはこの友人だけに限らない。男に限ると、ほとんどが初職から転職逸脱することなく、定年まで勤め上げている。終身雇用、年功賃金、企業福祉の恩恵を受け、結婚、子供を持つこと、家を持つこと、教育投資にいたるまで、多少は悩むことがあったにせよ、標準を歩んできている。女性も然りである。結婚退職をある程度前提とした就職、当然前述の標準を歩く男との世帯形成、専業主婦となるか、“赤ペン先生”的な社会参加型就労があっての子育て終了という標準の歩みである。したがって「勝ち組」世代というべきかもしれない。ここ20年の社会構造の変化がそう感じさせたのである。こうした課題を痛烈に思い知らされた1週間でもあった。
 こうした偶然がある。羽田の売店でいつも買うのが東京新聞。100円だが、最近の読売、日経の新政権批判に業を煮やしており、こんなに安くていいのかと思いつつ手にする。15日の書評欄にあったのが「ノンエリート青年の社会空間」(大月書店刊)。「若者たちの労働と生活は確かに過酷である。しかし、彼ら彼女らがそこである種の強(したた)かさを発揮し、仕事への誇りや仲間の存在のかけがえのなさを実感している。標準的ライフコースとは異なるもうひとつの社会・文化を立ちあげていく原基が芽生えている」とある。この表現に希望を託したいという強い思いが宿した。翌日、新宿・紀伊國屋で“希望の書”として手に入れたのは勿論である。
 しかし、10年に一度という鼻風邪である。鼻づまりが乏しい集中力、持続力を更に更に減退させ、イライラ続きでもあった。上京中がピークで、広貫堂の和漢のど飴を切らさず口に含んでいた。同期会の会場は麻布十番駅下車である。遅い昼食だが、暗示に弱い老人は、韓国料理と決めていた。ビルの3階にある“ソサンジュ”が目に入り、迷わずにエレベータのボタンを押した。若い女性店員がカウンターに座ろうとすると、階上のテーブル席を勧めてくれた。風邪気味だというと、すかさず「蔘鷄湯(サムゲタン)がいいです」と、わが思いとすぐに一致。頭から吹き出る汗に、セーターを脱ぎ、更にサービスで生姜湯まで出してくれ、人心地をつくことができた。働き易くしているな、という感じがすぐに伝わってくる対応に、うれしくなってしまった。
 本論にはいろう。キーワード「親密な他者」である。この店長と女性店員の間でのコミュニケーションであり、相性だ。こんな時代であるから、どの職場も厳しく、チームとして高いテンションと、その場を切り抜ける「才覚」、エネルギーが求められている。空論ではなく、現場で実際にこれがどう実践されるかである。単に仕事能力ではなく、職場秩序に不可欠と見なされる人間関係を取り持つ“能力”である。これだけは、わが東大卒に期待しても無駄なことは誰しも了解してくれる。いわば、寅さんでいえば、印刷工場で働く義弟・ひろしである。とはいえ、この親密な他者に注目し、中堅のスキル能力に加えて、職場支配とする動きも当然あり、エセ親密な他者が、不器用で空気が読めず、人づきあいが下手な人間を攻撃排除に回ることもあり得るのだから、一筋縄ではいかない。しかし、ノンエリートの職場定着に、親密な他者は欠かせない。
 ここで認識しておかなければいけないのは、ノンエリートはわが世代での「踏み外し」や「逸脱」の少数ではなく、ほとんどの青年多数がそうであり、そうでない正規と称される青年もそのリスクは相当に高いということである。
 わが同期最高の逸脱者は実にさわやかであった。日大芸術学部を中退し、40年近い仏独の漂流生活を満喫し、このほど帰還した。お洒落は彼以外にいない。思えば、標準を死守しようとして失ったものも何と多いことか。それも加えて、伝えなければならない。
 そして、強く望みたい。ノンエリート青年達が強かに生き抜き、いい仲間が集いあって、この風潮に顔を真っ直ぐ向けて、笑い声をぜひ、響かせてほしい。切に切に願ってやまない。

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