「カティンの森」

40年4月、旧ソ連領内の西に位置するスモレンスク近郊、カティンの森。ショベルカーで掘り起こされた大きな窪みを背にして、囚人用自動車が停止する。ひとりずつ車から降ろされるや、両手を後ろ手に縛られ、窪みを前にして背後から後頭部に向けて銃が発射される。引き立てられるのは、独ソでポーランドを分割統治にはやるソ連軍に全面降伏したポーランド軍の将校達。一瞬、驚愕や恐怖で顔が引きつらせるが、ソ連軍兵士は崩れ落ちる将校を、足蹴にして窪みに突き落としていく。それが数日間、延々と続き、その数4,410名。この悲惨な出来事は、43年独ソ開戦でこの地に侵攻したドイツ側に発見され、ソ連軍の虐殺行為と発表された。他の2箇所でも虐殺されていて、総数は1万4464名に及ぶ。
 ところがソ連軍の反攻によってカティンなどが取り戻されると、ソ連は偽装を行い、ヒットラーの犯行だと決め付けた。戦後東欧圏に属したポーランドでは、カティンは語ってはならぬものと封印される。90年ゴルバチョフの出現で、ようやく自国の犯行と認め、謝罪がなされたのだが、真相解明には程遠い。
 ヒトラーとスターリンにもてあそばれたポーランドの悲劇は筆舌に尽くしがたい。もし、アンジェイ・ワイダがいなければ、この国の近現代史はこれほど知られることはなかったであろう。83歳の映画監督の恐らく最後の作品がこの「カティンの森」だ。東京・岩波ホールで上映されている。2月20日までとあるから、ぜひ機会があれば、見てほしい作品である。
 映画化までに17年を要している。何とワイダの父が、殺され埋められた将校のひとりであり、母は尽きることのない悲しみを抱き続けてきた。作品の冒頭、両親に捧ぐ、とワイダは記す。映像は物静かである。母をイメージした将校の妻、娘、甥、母親達がカティン以降をどう生きたか、をカメラは追っている。政治体制の冷酷を背景に、抵抗か裏切りか。それぞれの人間は、選択を迫られていく。
 そして、背景で語られるのが、カティン以降のいまひとつの惨劇だ。「暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は 吹きすさぶ 怯まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖をうち砕け・・・」。ご存じワルシャワ労働歌であるが、高揚の中に悲惨が押し込められている。44年8月、最大の悲劇ワルシャワ蜂起が起きた。ワルシャワ開放を目指すソ連軍は10キロ先に迫ったところで、ポーランド国内のレジスタンスが蜂起することになった。ナチスの暴虐をこれで断ち切ることができると、労働者、学生、市民が立ち上がった。ところがどうしたことか、川向こうにいるソ連軍は動かない。やがて装備にまさるドイツ軍が殺戮、破壊の限りを尽くす。死者は20万人以上に達した。ワイダは、作品「地下水道」で描いている。行く手を阻む鉄格子から見えるのは、暴虐を尽くすドイツ軍の所業をただ見ているソ連軍。すべてがスターリンの陰謀ではないか、という確信にいたる疑念が、悔やみきれない映像となっている。
 最も恐れを持つものが独裁者である。スターリンはポーランドの反逆と再生を恐れた。カティンで虐殺した将校の多くは、学者、教師、技師などの知識人であり、その多くを今抹殺しておけば、またワルシャワ蜂起では、ナチスに反逆予備軍でもあるレジスタンスを死にいたらせておけば、共産主義の盟主であるソ連の安泰は続く。そう独裁者の猜疑心は読んで、その通り実行したのである。当時のポーランド全人口3000万人余りの中で、5人に1人が死亡し、3人に2人が被害を受けた。
 ワイダは語る。「私は、人々は全員が自由を望んでいるのだと考えていたが、そうではないことに気付いた。旧体制では、考えたり、決断したり、行動したり、熱心に働いたりする必要がない。覚悟の要らない、そんな旧体制に居心地の良さを感じる人々が予想以上に多かった。ポーランド人はひとつの住宅に住み続ける。この住宅が時として変化を阻む鎖となっている。また、若者達に熱心に仕事に打ち込めるような可能性を提供できなかったからではないかとも思っている」。苦悩は深い。
 ワイダの作品をもう一度見直して、ワルシャワ、アウシュビッツを訪れたいと思っている。できれば、成人した孫娘と一緒に、と思っているのだが。
 参照 日経11月7日朝刊「世界を語る」。映画パンフ「カティンの森」。月刊文藝春秋11月号小林和男エッセイ「ワイダ監督の涙」。

© 2020 ゆずりは通信