「昭和解体」

 書店で手に取ったのは、副題の「国鉄分割・民営化30年目の真実」が目に入ったからだ。自分の頭の中にいまだに腑に落ちないところがある。分割・民営化こそ正解であり、現在のJR東日本、東海、西日本の隆盛を見てみろ、というが果たしてそうだろうか。

 「昭和解体」(講談社)は1年前の17年3月刊行で、著者は元・日経記者の牧久。現状肯定派の日経らしい筆致で、改革派3人組が何となく英雄視されている。国鉄解体こそ昭和の解体だとする認識は正しい。分割・民営化に大きく立ちはだかった国労を完膚なきまでに潰し、その結果として総評を追い込み、社会党を追い詰め、現在の政官労の原型を作ったのは間違いない。戦後の昭和を40年間生きたものとして、個人的にも総括しておかねばならないと綴ってみた。

 75年のスト権ストがやはり大きな分岐点であった。その頃は東京勤務で富山県赤坂会館に宿泊した。条件付きのスト権付与を三木首相が受け入れるという観測を得て、冨塚三夫・国労書記長が打って出たが大失策となった。中曽根幹事長が一切妥協しないと党を押さえてけん制したのである。この時の国労・動労への処分は解雇15人を含む5405人、損害賠償202億円の請求となったが、これが国労の息の根を止めることになる。

 国鉄の歴史をざっとおさらいする。敗戦後、復員兵や海外引揚者の雇用の受け皿となって60万人という過剰な人員を抱え込んだ。発足時から10万人に近い人員整理を強いられ、下山事件・松川事件・三鷹事件といったミステリアスな事件に見舞われる。こうしたところに組合側の権利要求が加わるのだから、混乱の極みが続いたことは間違いない。国労では最左派の社会主義協会派が大きな勢力を持っていたこともあり、合理化反対を押し立てての職場協議が現場の職制を追い詰めていた。これに反撃しようと不当労働行為で人権無視のマル生運動を展開していく。ところが国労はマスコミにこの実態を訴え、毎日新聞の内藤国夫などがキャンペーンを張るなどして世論が国労支持に回り、磯崎総裁が国労に陳謝する羽目になる。これで20万人を割り込んでいた国労組合員が24万人となった。しかし今度は図に乗った組合側が順法闘争で、国民の理解が全く得られなくなっていく。

 そして鈴木善幸内閣で行革大臣に就任した中曽根が第2臨調をスタートさせる。膨らむ国鉄の赤字にどう対処するか。43万人の職員を35万人にするという「後のない経営改善計画」が作成される。労使協調を基本としながら、退職者不補充でこの計画を達成しようとするもので、のちに国体護持派と呼ぶグループが、分割民営化策に対抗しようとした。誰もが難しいと感じていた時に、臨調メンバーに呼ばれた角本良平・元運輸省OBが初めて民営分割しかないという持論を述べる。これを聞いた土光敏夫が「あの人はどんな人か、立派な意見だな」とつぶやき、流れが確定した。この頃から改革3人組が国鉄内で活発にうごめき始める。井手正敬のちのJR西日本の社長、松田昌士のちのJR東日本の社長、葛西敬之のちのJR東日本社長の3人を指している。国労側のヤミ手当などを積極的にマスコミにリークし、汚い国労というイメージを定着させていく。そして決定的な反転攻勢のきっかけになったのが動労の大きな方針転換。国労と並んで合理化反対で一致していたのに、動労委員長・松崎明がコペルニクス的な転換とうそぶき、当局側に付いた。松崎は新左翼革マル派の幹部である。総評も抜けて、国労と戦うという転向で、国労の孤立が際立ち、労使協調を謳う宣言書に鉄労、全施労と並んで署名していった。

 87年の臨調最終答申に分割民営が明記されて、6つのJRと貨物会社がスタートすることになり、人の選別も進むことになる。全員が国鉄清算事業団に籍を移し、そこから新会社に採用されるというシステム。採用されないものは人材活用センターで雑用や屈辱的な特訓が強要された。「格子なき牢獄」「国鉄アウシュビッツ」とまで呼ばれ、大半が国労組合員だった。

 さて、民営化はいいとして、分割を避ける手はあったのではないか。JR東海はあり余る利益をリニアに投資するが、その利益を北海道で活用したらどうか。他の本州2社もここぞとばかりに経営多角化に投資を向けている。改革3人組もその才能といえば、そのスケールは労務などの官僚手法の枠を出ない。国労組合員をあれほどに追い詰めた罪はやはり重い。自らの栄達が本意ではあるまい。加えて、西日本の井出は、福知山線脱線事故で大きな責任があるが責任逃れに終始した。東海の葛西もアベ友となって、リニアに政府の投資を引っ張り込んだ。何よりも77歳になって代表取締役会長にしがみつき、タカ派の論客として産経コラムの執筆している。愚かしい。

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