抱きしめたい8月

思い出して、心が安らぐ幼児期の体験を持っているというのは幸せである。人間の記憶が遡れるとすれば、4~5歳ぐらいだろう。親達から何度も聞かされているうちに、それが自ら体験したようになる場合もある。そんな混然としたものであってもいい。8月はそうした記憶が蘇ってくる月である。
 母の入院先のベッドで、アルバムを手に話をする。祖母を指差し、どれほどあんたを可愛がったか、私にはこんな可愛い子を産んでくれてありがとう、と何度も繰り返しいってくれたと喜ぶ。そんな記憶を鮮やかに口にする。介護4の認知症が、深い暗闇から記憶をくみ上げてくるのだ。昭和20年8月生まれの幸せは、栗原貞子の詩「生ましめんかな」をもっていることである。
 『こわれたビルディングの地下室の夜だった。原子爆弾の負傷者たちは ローソク1本ない暗い地下室をうずめて、いっぱいだった。生ぐさい血の匂い、死臭。汗くさい人いきれ、うめきごえ その中から不思議な声が聞こえて来た。「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。この地獄の底のような地下室で今、若い女が産気づいているのだ。マッチ1本ないくらがりでどうしたらいいのだろう 人々は自分の痛みを忘れて気づかった。と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と言ったのは さっきまでうめいていた重傷者だ。かくてくらがりの地獄の底で 新しい生命は生まれた。かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも』
 この詩を読むと、朝鮮から引揚げの途次、ごった返す船の中で、列車の中で、昭和20年8月生まれを背負った祖母が「赤ちゃんがいるがやぜ」「赤ちゃんがいるがやぜ」と声を張り上げている光景が眼に浮かんでくる。生まれて45日の刷り込められた記憶である。 
 墓無用論者であるが、父の新盆であれば出かけないわけにはいかない。墓掃除等は新湊に住む姉がいるので、何とかなっている。墓無用論も、どうしようもない不精さを取り繕っているだけかもしれない。当然手ぶらで、数珠だけをポケットに突っ込んできた。愚息は帰省せず、ひとりであれば所作にこだわることなく、「ありがとよ」と一言だけ手向けた。
 同じ曼陀羅寺の境内に、新湊天満宮がある。慶長17年に前田利長の重病を祈祷により快癒させたことで、前田家から道真公画像を賜り、それを祭神としたもので、別名で日吉社とも呼んでいる。往時ここでの祭礼は大変な賑わいだったという。大正14年新湊尋常高等小学校に進んだ父は、野球に熱中した。高岡古城公園グランドで、平米校、大門校、富山の八人町校と交歓試合をしている。3塁手で、愛称が“日吉の豆ちゃん”だ。そんなこともあり、平成5年に新しく再建されているが、その再建委員長を務めている。志の輔と並んで朱の灯篭を寄贈しているのだが、そんな微笑ましい記憶もうれしいものだ。お寺の正面にある中川餅店の先々代が父の同級生。その縁も大事にしなければと、父の好物であった小田巻を買い求めた。「私、おじいちゃんちゃ、知らんがやぜ」と若嫁さんが、あいさつを返してくれた。
 ちょっと足を伸ばして、海を見ることにした。奈呉の海である。小学時代の夏休み、毎日飽きることなく、小さな三角ふんどしで海に遊んだ。まっ黒に日焼けをして、背中の皮をむしりあってもいた。懐かしく、抱きしめたい8月である。
 といいつつ、期せずして8月30日は投票日となった。戦後64年にして、本格的な政権交代となるのかどうか。老人党に依拠しつつ、単純な利益誘導、怒り暴発を避けつつ、無能で、見識のない政党、政治家を数回に分けて選別していくのだ、という眼をもって臨みたいと思っている。

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