わたしはコロ

平成元年に生まれた。メス犬であるが、どういうわけコロ。飼い主のいい加減さと期待の無さが出ている。同じ町内の双方雑種を父母に持ち、メスで引き取り手がないのをここの奥さんが可哀想と引き取ってくれた。血統書が何なのよ、馬鹿にされてたまるか。生まれたときから啖呵を切り、片意地を張って生きてきた。この奥さんに初めて抱かれた時は、何ともいえないやさしい抱き方で、動物好きな人だとうれしかった。それに較べて、ご主人だ。口先ばかりで、ひとりよがり、声は大きいが中身はない。抱き方がまったく下手くそで、わたしの気持ちなんぞ全くわかっていない。この夫婦の落差、大丈夫なのかと訝った。この家には男の子が3人いた。特に一番下は3歳で、おもちゃ代わりにするのには閉口した。心の中で本当のご主人は奥さんだと決めていた。家の中もそうである。子供たち3人も、奥さんだけを頼りにしていた。
 思春期を迎えた時、わたしにもいい寄るオス達がいた。ゴンとシロ。二匹とも鎖を引きちぎって駆けつけてきたが、相手にしなかった。今にして思うと、やらせてやればよかったと思う。「処女にて身に深き持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす」富小路禎子の歌だが、犬であっても同感だ。後悔というほどではないが、やはり犬と生まれて、何かやり残し感がある。わたしの青春はあっという間に過ぎていった。
 ところがである。あろうことか、この奥さんが肺癌で倒れ、1年後に逝ってしまった。平成9年の1月だった。一番悲しかったのは、わたしである。この後どうなるのか、とても不安になった。無精、ものぐさ、いい加減で不器用のご主人とうまくやっていけるのか。あの奥さんがいてのご主人。会社とかいうところでも問題児のようだし、家族崩壊も覚悟した。しかし、案ずるだけバカを見たような結果になった。繊細でないというのは何という利点なのか。悲しみを感じる感受性が乏しいのか、やけっぱちなのか、いつもの日常にすぐにもどった。散歩は変わらずにやってくれ、餌も、水も。口数は少なくなり、義務的という感じだが、何であれ、やれやれと胸を撫で下ろした。やがて一番下の息子も、東京の大学とかへ行き、わたし達だけの生活となった。朝と晩「おい、コロ行くぞ」「ホイ、メシだ」と無造作は変わらない。そしてシャンプーで洗ってくれる回数が極端に減った。皆無といっていい。生きてりゃ、文句はないだろうと。女心のわからない、うすらトンカチと叫んでいた。
 1年半前くらいか、自転車で近所に出かけた時、急に心臓が苦しくなってきて、痙攣を起こしてしまった。ご主人のびっくりした顔を忘れない。発作の頻度はだんだんと増してきて、隣の敷地まで辿りつけなくなってしまったのが昨年夏。奥さんのがん治療で懲りたのか、自然治癒力しか信じていない。単細胞の思い込みの最たるものだが、こちらも薬や治療は好きではない。夏は乗り切れないだろう、と獣医は断言していた。忘れもしない8月29日。わが眼前に、和牛の赤みが出された。このうまさは何だ、初めて口にした。暑さに弱りきっていた体力がかすかだが、力を得た。束の間のことだと思ったが、うれしかった。死を悟ったのは11月頃。散歩もままならず、咳が止まらず、痰が切れずにゼロゼロする感じだった。1月22日から何も口にしないことにした。自ら食を絶つことで死期を早めたいと思ったのだ。27日、何かを察したのか、飲み会を急遽断って早く帰宅してくれたご主人に看取られて旅立った。平凡な一生だった。
 享年16歳、ドッグイヤーでは100歳を超えているのであろうか。はてさて、もう毎日帰宅する理由もなくなってしまった。

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